生き抜くために必要だったのは執着

 1つは宗教的なバックグラウンドがある人が強いということ。これはなんとなく想像がつくかもしれません。

 さらには「繊細な被収容者の方が、粗野な人々よりも収容所生活によく耐えたという逆説がある。」(新版58ページ)とのことです。イメージとしては、粗野で細かいことを気にしない人の方が強そうですが、実際はそうではなかった。

 もともと精神的な生活を送っていた人の方が、現実の過酷な状況に苦しみながらも、自分の信じるものや信念を見失わずに、生き抜くことができたのでしょう。

 当時のヨーロッパと、現代の日本では、宗教への依存度がまったく違っているので、参考になりにくいと思う人もいるかもしれません。

 しかし、宗教に限定しなくても、自分の精神的自由を保つ方法はあります。

 本書にはこんなことも書かれています。

「(暫定的な)ありようがいつ終わるか見通しのつかない人間は、目的をもって生きることができない。ふつうのありようの人間のように、未来を見すえて存在することができないのだ」(同119ページ)

 被収容者のように、現在の状態がいつ終わるかわからない状況に置かれると、未来に対する希望を失ってしまい、収容署生活に耐えられなくなってしまうのです。

 一方、フランクルには、現在の状況について心理学的、学術的に考察し、その内容をいつの日か必ず出版して世の中のために貢献したいという、非常に強い使命感がありました。未来に対する希望、もっと言えば執着を忘れなかった。

 そのためフランクルは、私物を所持できない環境下でも、小さな紙片を隠し持ち、細かい字で記録を取り続けたのです。彼は言います。

「自分を待っている仕事や愛する人間に対する責任を自覚した人間は、生きることから降りられない。まさに、自分が「なぜ」存在するかを知っているので、ほとんどあらゆる「どのように」にも耐えられるのだ。」(同134ページ)

 安全地帯で、たまさか心に浮かんだセリフではありません。現実の過酷な収容所生活を乗り切ったフランクルの言葉には、自然とこうべを垂れてしまうような重みがあります。

 しかし、フランクルほど高邁な目的ではなくても良いのです。

「家族を守るため」でも

「自分のやりたいことを実現させる」ためでも良いでしょう。

 みなさんの大切にしていることにフォーカスを合わせることが大切です。

 こういう時だからこそ、自分が本当は何を大切にしているのかということが、明瞭になってきたのではないでしょうか。