ソ連軍による軍事侵攻がいかなるものであったか、満洲、朝鮮半島、南樺太、千島列島のそれぞれについて見ておくことにしよう。

 ソ連艦隊にとって太平洋側への出口にある千島列島の確保は、ソ連にとっては死活的利益であったが、まずは極東ソ連軍のほぼ全兵力を集中して満洲に侵攻する「第1次作戦」から開始、次に南樺太に侵攻する「第2次作戦」、さらに未遂に終わったが北海道北部を占領する「第3次作戦」を計画していた。

「第1次作戦」である満洲への侵攻からみていこう。1945年8月8日、「日ソ中立条約」を一方的に破棄して日本に宣戦布告、翌日の午前0時をもって軍事侵攻を開始した。「日ソ中立条約」は、ソ連が日本に対して破棄を通告していたが、翌年1946年の4月26日まで有効であった。日本側は、不意を突かれたのだ。まさか、ソ連が侵攻してくることは、一部の関係者を除いて想定内にはなかったようだ。

 精鋭とうたわれた帝国陸軍の関東軍が満洲国を防衛していたはずだが、南方戦線に部隊の主要部分が移動してしまっていたためすでに弱体化しており、満ソ国境付近で多くの部隊が全滅、あっというまに総崩れとなってしまった。関東軍の首脳は、8月10日に新京から撤退を決定、日本人居留民が取り残されてしまった。いくつかの例外はあったものの、関東軍は居留民保護という軍の使命を結果として放棄したのである。

「満州事変」(1931年)によって日本の傀儡国家として成立した満洲国には、100数十万人を超える日本人が居留民として暮らしていた。官僚や企業の駐在員として、勤務の関係で暮らしていた人たちとその家族だけでなく、農業移民として開拓にあたっていた人も多い。過酷な独ソ戦を体験していた極東ソ連軍は、最初から軍紀が乱れており、日本人居留民に対する殺傷や強姦、略奪事件が多発している。この悲劇については、現在でも映画やドラマのテーマとなることも多いので、比較的よく知られていることだろう。

 難民となった満洲の日本人居留民の帰国は大幅に遅れ、朝鮮半島を経て逃げた人びとも多く、命からがらの脱出行では多くの人びとが辛酸をなめることになった。それだけでなく、武装解除された将兵以外の民間人の成年男子もシベリアや中央アジアの強制収容所(ラーゲリ)に送られ、過酷な強制労働を強いられた。25万人以上が死亡したとされている。いわゆる「シベリア抑留」である。

満洲侵攻の側面支援だった朝鮮半島北部への侵攻

 ソ連軍はまた、満洲に侵攻した8月9日、ほぼ同時に国境を接している朝鮮北東部から爆撃を開始し、地上部隊が南下しながら「日本統治下の朝鮮」を制圧していった。1945年9月2日の日本の降伏までに、北緯38度線以北の朝鮮(=北朝鮮)全域に進駐を完了している。

 だが、ソ連軍にとって朝鮮北部への侵攻は、主作戦である満洲侵攻の側面支援を意図したものであり、最初から38度線以北を確保することが目的だったわけではない。対日戦において朝鮮半島を戦略的に重視していなかった米軍が、朝鮮半島に進駐するのが遅れた結果、米ソ間のあわただしい取り決めによって、38度線を境に北部はソ連、南部は米国が進駐することになったのである。

 朝鮮半島の南北分断は、大日本帝国による植民地支配が背景にあったことはたしかだが、直接の原因は当時の2大超大国であった米ソに帰すべきであろう。北部のソ連の占領地域には、ソ連領内でかくまわれていた抗日ゲリラの金日成(キム・イルソン)が送り込まれ、南部の米軍の軍政下では、米国で亡命生活を送っていた李承晩(イ・スンマン)が送り込まれることになる。

 日本人居留民の満洲難民の多くは、朝鮮半島を南下して難民収容所で過ごしたあと、帰国船によって日本に帰還しているが、朝鮮半島が38度線で分断されていたため、その苦労はきわめて大きなものとなった。

樺太南部と千島列島への侵攻

 先にも触れたように、樺太南部への侵攻は「第2次作戦」であった。8月11日、樺太北部のソ連領から地上軍が国境線を越えてきた。日本の敗戦による戦争終結が時間の問題となっていたためだ。

 実はソ連は、占領後の南樺太を基地にして、「第3次作戦」である「北海道北部侵攻作戦」を計画していた。だが、ソ連の意図を正しく見抜いていた帝国陸軍の第5方面軍の指導により、南樺太においては第88師団が頑強に抗戦、8月15日時点では国境付近の要所もいまだソ連に占領されていない状態であった。8月15日以降も南樺太では戦闘がつづき、停戦協定が結ばれたのは8月22日のことであった。

 想定外に南樺太の占領が遅れたため、スターリンは8月22日、最終的に北海道北部侵攻作戦を断念することになる。そもそも、北海道北部侵攻は、米国のトルーマン大統領が拒絶しており、降伏文書調印までの限られた時間で北海道北部を占領することは、軍事的にみてきわめて困難だとわかったからだ。もし仮にソ連軍が「第3次作戦」を決行していたら、圧倒的な兵力を持つ米陸海軍と衝突していた可能性もある。樺太での帝国陸軍による頑強な抵抗が、北海道分断を防いだのである。