ソ連は、千島列島はなんとしてでも押さえたいと考えていた。8月17日深夜、ソ連軍は北千島の最北端の島である占守島(しむしゅとう)に対岸のソ連領カムチャツカから上陸したが、帝国陸軍の第91師団は3日間にわたってソ連軍と激戦を戦い抜き、停戦に持ち込んでいる。その結果、幌筵島(ぱらむしるとう)以南へのソ連軍は無血占領となったものの作戦展開が大幅に遅れ、この点からも、北海道北部侵攻作戦が不可能となった。
南樺太と占守島の守備隊の頑強な抵抗のおかげで、北海道北部が占領されることなく、日本が分断国家となることから免れ得たのであった。この事実は、日本国民として十分に認識しておく必要がある。米国は、ソ連による北海道北部占領は拒絶していたが、千島列島をソ連が占領することは暗黙のうちに認めていた。北方領土問題が米ソ間の問題であるとは、このことを指している。
ちなみに、スターリンが北海道北部を要求した理由に、「シベリア出兵」(1918~1922年)の代償を主張していた。たしかに、このコラムでも取り上げたように(「知られざる戦争『シベリア出兵』の凄惨な真実」https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/55568)シベリア出兵において帝国陸軍が現地で行った暴虐行為の数々は否定することはできない。だからといって、北海道北部を占領する必要があるというロジックは理解に苦しむ。
ソ連侵攻をもたらした日本の指導層の「希望的観測」
ソ連侵攻は、「日ソ中立条約」が存在するにもかかわらず、ソ連側が一方的に条約を破棄して侵攻を断行したものだ。ところが、その直前まで日本の指導層は、なんとソ連に連合国との停戦交渉の仲介を期待して働きかけていたのである。なぜそんなバカな事態を招いたのだと言いたくなるのは私だけではないのではなかろうか。
もともと、ドイツとの戦争の危険を感じていたユーラシア国家のソ連は、ユーラシア大陸の東西両サイドで、ドイツと日本との二正面戦争を戦うはめになることを極度に恐れていた。「独ソ不可侵条約」(1939年)が締結されたのはそのためであるし、ソ連は日本にも「不可侵条約」の締結を求めていたのである。
というのも、大戦の最末期の「ソ連対日参戦」の前に、近代に入ってから日本とロシアは4回にわたって激突してきたからだ。「日露戦争」(1904~1905年)、「シベリア出兵」(1918~1922年)、「張鼓峰事件」(1938年)、「ノモンハン事件」(1939年)である。最後の2つの戦争は、ともに国境紛争であった。日ソの双方に多大な犠牲者を出した上で政治的に決着がつけられ停戦となった。ともに全面戦争は回避され、限定戦争となったのである。かつて、ノモンハン事件では日本が惨敗したとされてきたが、ソ連側の被害も大きかったことが現在では明らかになっている。だから、ソ連は日本を脅威と見なし、その後も警戒を怠らなかったのである。
その後、日本側から「不可侵条約」の締結をソ連に求めた際、ソ連側は「中立条約」を逆提案し、1941年4月に「日ソ中立条約」が締結されることになる。その直後のことであるが、「独ソ不可侵条約」が、1941年6月になってドイツによっていとも簡単に破られている。その事実を知りながら、日本の指導層が、ロシアが日本を裏切ることはあるまいと考えていたのは、現在から見て実に不思議な印象を受ける。根拠なき楽観というべきであろうか。