大日本帝国の領土は、南は台湾、北は朝鮮半島と満洲、南樺太と千島列島まで及んでいた(ただし、第2次大戦中に占領した南方は除く)。このことからもわかるように、北方領土問題は、けっして朝鮮半島問題と無縁の問題ではない。いずれも、日本の敗戦直前から始まったソ連による軍事侵攻がもたらしたものであり、戦争遂行にあたって日本の海外領土を戦略的に重視してこなかった米国の不作為がそれを助長したのである。そして、不毛な日中戦争の舞台となった中国もまた当事者である。

「降伏文書」後も続いたソ連の侵攻

 歴史を振り返って考えるにあたって、まずは1945(昭和20)年8月15日の「ポツダム宣言受諾」前夜から始まったソ連軍による侵攻について見ておこう。

 8月6日の米軍による広島への原爆投下につづき、8月8日にソ連は「対日宣戦布告」して、9日午前0時から満洲に侵攻を開始した。「日ソ中立条約」を一方的に破棄したうえで、満洲国、朝鮮半島、樺太南部、千島列島に次々に侵攻し、各地で日本軍と戦闘になったのである。

 ソ連が満洲に侵攻した8月9日には、米軍による長崎の原爆投下が、ダメ押しのように行われている。このままでは日本民族が絶滅してしまうという危機感を抱いた昭和天皇の御聖断によって、日本の国体である天皇制維持を条件に「ポツダム宣言」を受諾することを決断された。日本政府は、8月15日に天皇による「終戦の詔勅」を発布、全国民に向けてラジオで玉音放送が行われた。この時点で、日本の敗戦は実質的に確定した。

 ここまでは、日本国民の多くが「常識」として知っている歴史的事実であろう。だが、実際に大東亜戦争が終結したのは9月2日である。東京湾に停泊する米海軍のミズーリ号上で、連合国とのあいだで「降伏文書」が調印された時点のことだ。8月15日から9月2日までのあいだに何が起こったのか、ソ連軍の侵攻について日本国民はよく知っておく必要がある。

 さらにいえば、降伏文書調印の9月2日以降もまだソ連軍の侵攻が終わっていなかったことも知っておく必要がある。「北方領土問題」の焦点となっている歯舞諸島のソ連による占領が完了したのは、9月5日のことであった。このことは銘記しておきたい。

日本の敗戦直前に始まったソ連の満洲侵攻

 ソ連が対日戦争に参戦することは、すでに「テヘラン会議」(1943年11月)で、独裁者スターリンによって公式に表明されていた。

 1944年夏には、ソ連は対日参戦準備に正式に着手している。同じ年の10月には、「ドイツ敗戦から3カ月で対日参戦」するという約束を、連合軍の中心であった米英から取り付けていた。「ヤルタ会談」(1945年2月)の秘密協定において、ソ連は樺太南部の「返還」、千島列島の「引き渡し」を米英に認めさせていた。この事実を、日本側はキャッチしていなかったのだ。

 ドイツが連合国に降伏したのは1945年5月7日であり、その日から3カ月とは8月7日となる。ソ連にとっては、ギリギリのタイミングだったことになる。独ソ戦は、史上まれに見る、想像を絶する絶滅戦争となったが、その独ソ戦を戦い抜いた部隊をユーラシア大陸の反対側に位置する極東ロシアに移動するため、対日戦の準備にはそれだけ時間がかかったからだ。もし日本の降伏が早まっていたら、ソ連にとっては、作戦実行が不可能となっていたのである。だからこそ、ドイツの降伏後に停戦に持ち込めなかった日本の指導層の罪は、きわめて大きい。