「独ソ不可侵条約」が廃棄された直後の1941年6月には、「関特演」(=関東軍特殊演習)が行われている。これは、対ソ戦を意識して、いつでも戦争に入る準備として行われたものだ。ドイツからソ連を挟み込んで攻撃することが要請されていたからである。結局、「関特演」にともなう対ソ戦は実行に移されなかった。だが、「日ソ中立条約」がありながら帝国陸軍はこうした動きを示しているのであり、当然のことながらソ連側でも警戒を怠っていなかった。1945年8月9日に「日ソ中立条約」を破棄してソ連軍が侵攻してきたわけだが、自分たちもすでに実行しようと意図していたことであり、ちょっとでも考えてみれば十分予想できたはずである。日本側にはイマジネーションが欠けていたのであろうか。

 ソ連軍の非道な行為と、それを命令した独裁者スターリンの罪は重く、言語道断というべきだが、一方では、それを許した日本の支配層の見通しの甘さ、希望的観測もまた同様に罪が重いと言わざるを得ない。

希望的観測をもたず自分の身は自分で守れ!

「希望的観測」とは、「そうあってほしい」とか「そうだったらいいな」という「希望」に基づいて判断を行うことをいう。確実な証拠があるわけでもなく、そのために何か具体的なことに取り組むというわけでもない。「相手がわかってくれるはず」という思い込みもまた「希望的観測」のなせるわざだ。そもそも、他人が自分のことをどう考えるかなんて、本当はわかるはずないのだが。

 大戦末期のソ連侵攻は、日本側の希望的観測が招いた悲劇というべきだろう。「備えあれば憂いなし」とはいうものの、人間には、なぜか自分だけは関係ないという認知バイアスが働きがちだ。満洲の日本人居留民たちもまた、無敵の関東軍がいるから自分たちは大丈夫だと思い込んで、根拠なき楽観に囚われていたのである。ある意味では、指導層と似たようなものだ。

 人間には、自分自身が痛い思いをしないとリスクに備えようとしない傾向がある。大日本帝国崩壊時のように日本人が難民化する可能性は、確率的には高くないだろう。だが、それでも1945年8月15日前後から9月2日前後までに起こった事態を知ることで、先人たちのつらい体験を自分自身のものとして追体験し、リスクに備える準備をするべきではないだろうか。日本から難民が発生することはないにしても、再び動乱の時代になっている東アジアの各国、とくに朝鮮半島から大量の難民が発生する可能性が高い。難民を受け入れる立場からも、そのときをイメージして想定内にしておく必要があると思うのである。

 希望的観測をもつことなく、自分の身は自分で守らなければならない。これは日本人にとっての「常識」としたいものなのだ。だが、残念なことであるが、どうも日本人は健忘症のように思えてならない。