景勝は、魚津・松倉両城の将兵を見捨てて退却したのではない。5月26日に城兵の撤退がおこなわれ、これを確認した景勝は、織田軍に追撃されることなく、同日夜に軍を引いたのである。これ以前に景勝は、魚津・松倉両城を守る将兵を無事に越後に帰還させるために、織田軍の司令官・柴田勝家と一時的に和議を結んだとみられる。勝家としても、天険をたのむ松倉城を力攻めしたり、上杉軍の本隊と戦うことは控えたかったのであろう。

 しかし魚津城は、景勝が撤退した3日後の5月29日から織田軍の猛攻を受け、壮烈な戦いの末、6月3日に落城した。この魚津落城については、城の将兵が景勝を無事退却させるためのいわば「捨て石」になったとする見方が昔から一般的である。

 しかし、落城直後に書かれた6月5日付の佐々成政(さっさなりまさ)の書状には、次郎右衛門という人物が、無事に開城がおこなわれることを保証する織田方の人質として魚津城内に入った。

 その直後に、信長から城内の者を討ち果たすようにとの命令が届いたため、次郎右衛門が観念して切腹した結果、6月3日卯刻(うのこく、午前六時ごろ)に成政らの織田軍が城中に突入し、大将分13人をはじめとして1人も残さず討ち果たし落城した、との内容が記されている。

 中世の越後・佐渡両国に関係する基本史料集『越佐史料』に収録された「関屋政春古兵談」「管窺武鑑(かんきぶかん)」などにも、越後将兵の魚津城における全滅については、織田方のだまし討ちというべき強行策による悲劇であったことが記されている。

 これらの史料から推理すると、先に述べた光秀の密使が、包囲された魚津城に入ることができた時期がわかる。5月26日までに和議が成立し、松倉城は織田軍に明け渡された。残る魚津城で戦闘が再開したのは5月29日である。和議により、いったん織田軍の囲みがゆるんだ5月27日か28日に、密使が城内に紛れ込み、光秀のクーデター計画に関する情報を伝えたのであろう。

本能寺の変の準備はいつから?

 光秀が上杉方に望んだのは、越後へ進軍していた織田軍(柴田勝家らの北国方面軍)を、クーデター直後に釘付けにし、上方への帰還を阻止することであった。

 光秀が密使を出立させたのはいつであろうか。密使が魚津城に入ったのは5月27日か28日と推測されるから、上方から魚津への約500キロメートルにもおよぶ道のりと所要時間、さらに魚津での上杉方と接触する時間を考えると、光秀が家康の供応役を罷免された5月17日からほど遠からぬ時期となる。

 おそらくは光秀は、安土から近江坂本城に戻った直後に密使を出立させたのではあるまいか。この当時、備後国鞆の浦にいた義昭との緊密な連絡が必要なことから、6月2日未明に起こる本能寺の変の計画は、5月17日以前から練られていたことになる。

 こうしたことから、本能寺の変は従来いわれているような、光秀単独の発作的な行動によるものとは、決してみることができないのである。