上杉方のキーマン・須田満親

 光秀が密使を送った相手は、上杉方越中軍の司令官・須田満親(すだみつちか)であった。なぜ、須田満親だったのだろうか。

 満親の一族は、信濃国高井郡須田郷(長野県須坂市)を本拠としていたが、武田信玄の侵攻を受けたため、上杉謙信を頼って越後に逃れた。その後、満親は上杉景勝に重用され、1581(天正9)年に亡くなった越中松倉城の河田長親(かわだながちか)にかわって、松倉城と上杉方越中軍の指揮を任された。

 1582(天正10)年の3月から4月にかけて満親は、1580(天正8)年に信長によって大坂から追われ、越中五箇山(富山県南砺市)に潜んでいた本願寺の教如(顕如の子息)や当地の一向宗の門徒と結んで、越中に侵攻した柴田勝家らの織田軍と戦った。

 須田満親と本願寺には、浅からぬ関係があったのである。春日山城に近い教如派の寺院・本誓寺(新潟県上越市)に伝わる史料のなかに、本能寺の変から2カ月半後の1582(天正10)年8月20日付で本願寺宗主の顕如が満親に宛てた書状が残っている。

 そのなかで顕如は、「越中の門徒衆につきましては、引き続きよろしくお取り成しいただきますならば本望です」と、満親の影響力に期待を寄せているのである。

 また1582(天正10)年11月21日付の御内書で、足利義昭は直接、満親に対して帰洛のために奔走するように命じている。以前から密接な関係がなければ、将軍義昭がそのようなことをするだろうか。

 満親の前任者であった松倉城の河田長親は、義昭に贈り物を届けたり、義昭からは使者が来たりと懇意な間柄だった。これと同様に、満親も義昭と親密な関係をもっていたに違いない。

 このように、須田満親は上杉氏の家中において義昭および本願寺という、反信長勢力と密接な関係をもつ代表的な人物であった。光秀が密使を満親へ送ったこと、満親がもたらした情報を春日山城の上杉方が信用したのは、それなりの理由があったのである。

教如がはたした役割「諸国秘回」

 須田満親と越中の一向宗門徒を仲介したのは教如である。本願寺の宗主・顕如の子息で、反信長派として知られた彼が、なぜはるばると越中五箇山に来たのであろうか。

 教如は、顕如が1580(天正8年)年閏3月に信長と講和して紀伊国雑賀に退去したのちも、大坂にとどまったが、同年8月、大坂本願寺に火を放ち、顕如のいる雑賀へ逃れた。この敵対的な行動を、信長は見逃さなかった。

 ただちに信長は、教如の弟(顕尊)を支持することによって、雑賀にいる教如とその一派の動きを封じてしまった。さらに悪いことに教如は、政治路線をめぐって父の顕如と対立し、破門されてしまう。

 このために進退きわまった教如は、1580(天正8)年末に、わずかの側近とともに雑賀を抜け出し、いわゆる「諸国秘回(しょこくひかい)」―信長に対する決起を門徒衆に訴える旅―に出たのである。