教如は、まず甲斐へ向かった。この地の門徒衆を決起させて信長の武田氏攻撃を牽制しようとしたが、武田氏の敗色が濃くなると、教如は北国方面に向かった。そこでは、柴田勝家の率いる織田軍が上杉景勝を攻撃しようとしていたのである。
景勝の要請を受けた教如は、飛騨から越前を経て越中に入ると五箇山を拠点にして、先に述べた須田満親の上杉軍と連携し、越中だけでなく加賀や北信濃の一向一揆を蜂起させて、織田軍を攪乱(かくらん)したのであった。
教如の越中入りにあわせて景勝も1582(天正10)年4月8日に、かねての手はず通り、加賀・能登・越中3カ国の一揆勢に対して蜂起するように命じ、さらに5月2日には、先述の越後の本誓寺に対して、越中に景勝が出陣するので、越後国内の「諸坊主ども」を集めて協力するよう依頼している。
こうしたことから、教如の諸国秘回は自派の門徒衆のためというよりも、むしろ足利義昭と結んで信長包囲網を維持するためであったことがうかがえるのである。教如は、信長と大坂本願寺が争った石山合戦以来、一貫して義昭を本願寺の外護者と位置づけていたからである。しかしこの時点で教如は越中を去り、鷺森本願寺に戻った。
長宗我部元親は知っていた
本願寺の右筆(書記役)だった宇野主水(うのもんど)の日記に、本能寺の変の2日後の6月4日には、早くも長宗我部元親の使者が書状を携えて、鷺森本願寺に到着していたことが記されている。
本能寺の変を伝える急報が、土佐岡豊城(高知県南国市)にいた元親に伝わり、即座に使者を派遣したとしても、6月4日に本願寺に到達するのはとうてい無理である。元親にはクーデター計画をあらかじめ知らされていたのかもしれない。
このような状況のもと、政治路線をめぐって対立していた顕如・教如父子が、正親町(おおぎまち)天皇の仲介によって急遽和解した。それを受けて本願寺は、光秀に対して6月11日に正式の使者を派遣した。しかし6月13日に山崎の戦いがあり、光秀が敗退したことから、この使者は帰還している。(後編へ続く)