田原 その後の韓国は目覚ましい経済発展を見せましたよね。しかし1970年代の日本ではまだ韓国の経済力は正しく評価されていなかった。当時は「世界で最も素晴らしい国は北朝鮮で、韓国は地球の地獄だ」と、朝日新聞も読売新聞も書いていました。

 ところがそのころ僕は、野村證券の重役で、後に社長になる田淵節也さんに会ったら「田原さん、いま韓国は景気がいいんだ。よくなっているぞ、元気だぞ」って言うんですよ。「嘘だろう。独裁政治でどうしようもないじゃないか」と言ったら「嘘と思うなら行ってみろ」と。

 それで、1976年に韓国に行ってみたんですよ。そうしたら本当に景気がいいんですね。浦項も行きましたよ。帰国してすぐ『文藝春秋』に、「通貨マフィア戦争2 韓国――黒い癒着からの離陸(テイクオフ)」っていう記事を書いた。そうしたら、文藝春秋に抗議殺到ですよ。それだけじゃなく、僕に対する糾弾集会があちこちで開かれた。僕はそういうの嫌いじゃないから、全部出ていって話し合いましたけどね。

 で、一年半後には、僕が書いたことが明白になった。韓国の景気がさらに良くなって、日本も認めざるを得なくなったんです。

武藤 当時の韓国は、日本から得た資本を元手に輸出をどんどん伸ばしている頃ですね。製品を作るにしても、部品・素材は日本から輸入。それをノックダウン方式で最終製品にして輸出していた。この方式で、ほんの1~2年のうちに輸出がボンボン伸びていました。それが好景気を作り出していたわけですね。

 浦項総合製鉄を作るプロジェクトは、元軍人の朴泰俊さんが、当時の朴正煕大統領から「とにかく製鉄所を作れ」と命じられて始まりました。朴泰俊さんは、世銀に行ったりアジア開発銀行に行ったりして協力を頼んだのですが、みな「韓国にはまだそんなものは必要ない」と断られてしまった。最後に、新日鉄の社長・稲山嘉寛さんのところに頼みに来た。稲山さんは「日本は韓国を併合したんだから、韓国が希望することなら何でも協力すべきだ」ということで非常に尽力されました。

小渕-金大中の組み合わせだから可能だった日韓の蜜月

田原 稲山さんは何度も取材しました。中国が宝山鋼鉄を作る時にも、稲山さんが全面協力したんですよね。

武藤 ええ。日本と韓国にはそういう関係があったわけです。ですから私は、韓国の要人に会うと、稲山さんの例を出して言うのです。

「戦後の日本の韓国に対する協力をよく考えてほしい。植民地時代の記憶から、稲山さんは、たとえリスクがあろうと韓国に協力しなければならないと信じて、韓国に手を差し伸べてきた。日本はそれ以外にも、韓国と定期閣僚会議を開いて、韓国政府に多額の経済協力を提供してきた。

 日本が韓国を併合したという歴史があるので、そのことについて感謝してくれという気持ちはさらさらない。

 しかし、いまの韓国では、『日本は反省も謝罪もしていない』という世論が大勢を占めている。これは両国の関係にとって望ましい姿ではない。だけど、日本が戦後、韓国にどれだけの協力をしたのかを知れば、韓国の人々が持っている『日本が反省も謝罪もしていない』という気持ちは消えるんじゃないだろうか。そうすれば、日韓はもっと素直な気持ちで付き合えるようになるんじゃないか。日韓関係を良好な状態にすることにメリットがあると思うんだったら、あなた方もぜひ日本がしてきたことを国民に伝えてくれ」

 2012年に自分が大使を離任する時には、あちらの国務総理や外相にも挨拶にいきましたが、「これが最後の機会だ」と思ったので、特に強調して訴えたんですが、みな例外なく、嫌そうな顔をするばかりでした。

田原 日韓関係がいい時期もありましたよね。例えば小渕恵三さんが総理の時に、「日韓は仲良くしなきゃだめだ」ということで、アプローチした。韓国でも金大中大統領が、「過去のことはここで終えて、新しい日韓関係作ろう」と言った。あれで日韓関係はぐっと良くなると思いました。

武藤 あの時にそれができたということは、金大中氏が「日本が民主国家になった」と認めたということなんですよ。それ以外の韓国の大統領は、日本が民主国家になったと認めていないんです。まだ「大国主義だ、右傾化だ」とか言っているわけです。