なぜ、こんなことを行ったのか? それは、冒頭にも書いたように、江戸時代までは一世一元制、つまり一人の天皇にひとつの元号という制度ではなかったからです。当時は大きな事件や災害などが起こった場合に元号を変えることでリセットしたり、甲子、戊辰、辛酉といった干支の周期にちなんで改元するという中国の習わしに従っていたため、必然的に回数が増えてしまったのです。
それにしても、一人の天皇の在位中に6回の改元とは・・・。それだけ幕末のこの時期は政情が不安定だったともいえるでしょう。
例えば、嘉永年間には「黒船の来航」や「内裏の火災」、安政年間には「安政の大地震」や「桜田門外の変」、万延元年には外国人への相次ぐ襲撃事件が発生し、元治元年には「禁門の変」、そして、慶応年間はいうまでもなく、各地でさまざまな騒乱が発生し、武士の世が終焉に向かっていったのです。
万延元年使節団が江戸を発ったときはまだ安政だった!?
さて、『開成をつくった男、佐野鼎』(柳原三佳著・講談社)は、1860年1月、佐野鼎が随員として参加した「万延元年遣米使節」がアメリカから迎えに来た軍艦・ポーハタン号に乗って、江戸湾を出港するシーンから始まります。2年前の1858年に結ばれた「日米修好通商条約」の批准書(条約)を、アメリカの首都・ワシントンで大統領と直接交わすことがその目的でした。
厳密にいうと、彼らが江戸を発った1860年1月の時点では、まだ元号は「万延」ではなく、「安政」7年でした。この年の3月3日、まさにアメリカとの条約締結問題をめぐるいざこざがきっかけとなって「桜田門外の変」が発生、1860年3月18日に、元号が安政から万延に変わったのです。ですから「万延元年遣米使節」という呼び名は、正確に言えば、「安政7年の正月に出港した、万延元年遣米使節」ということになるでしょうか。
佐野鼎は、洋学者としては名を馳せていたものの、武家社会では下級の身分でした。念願かなって、なんとか幕臣の“従者”という立場で使節団に加わった彼は、アメリカ側が差し向けた軍艦を乗り継いで、約9か月かけて地球を一周しています。
これは、『開成をつくった男、佐野鼎』の口絵や裏表紙にも使われている佐野鼎が書いたとされる「地球略図」です(*写真がご覧になれない場合は、JBpressの記事をご覧ください)。
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この世界地図だけでなく、佐野鼎は「萬延元年訪米日記」なる詳細な日記も書き残していました。活字になったものが、昭和21年に金沢文化協会から出版されています。なんとかその古書を手に入れた私は、目次に並ぶ文字を見て圧倒されました。
「横濱港を出でて太平洋に浮かぶ」
「ホノロロ港よりメールス島に至る」
「サンフランシスコ府に赴く」
「パナマ港よりアスペンヲール街へ」
「ニウヨルク港口より引返してパトマツク河を遡上す」
「ワシントン府に上陸してウイルライト・ホテルに入る」
「分析に因る日米金銀貨の比較」
続いて、ヒレドルヒア、ポルトガランデー、ローアンダ、喜望峰、アンジヨポイント、バタービア、香港、といった外国の地名が次々登場するのです。
タイトルには「訪米日記」とあるものの、彼が足を踏み入れたのは、アフリカ、インド洋、アジアの国々にまで及んでいることがわかりました。
このとき、すでに加賀藩に砲術師範として召し抱えられていた佐野鼎は31歳。彼はどうしても遣米使節団に参加し、異国を自らの目で見たかったのでしょう。加賀藩の史料には藩主から許しを得るまでのやり取りを記した興味深い記録も残されていました。