もちろん私も、「がんばれ」の言葉は、私を励まそうとして言ってくれている、優しい気持ちからだというのは重々承知していた。しかし、「がんばれ」と言われても、「すみません、もうこれ以上無理です」と答えたくなる分、しかしせっかく励ましてくれている人に言い返すのもなあ、とためらう分、余計に疲れが増すという経験をした。なるほど、すでにがんばっている人に、「がんばれ」はシンドイ言葉だなあ、と実感した。

 もっとつらいのは、疲れ切って休んでいるときに「がんばれよ」と言われるとき。もうこれ以上がんばれないよ、少し休ませて、と思って休んでいるときに、「がんばれ」と言われると「休ませてもらえないんですか」という気持ちになる。

 さらにつらいのは、とうとう体を壊し、心も無感動になって、働く意欲さえ失せたとき。かつては、あれだけバリバリ意欲的に働いていたのに、どうして働けないのか? どうしてこんなに怠け者になったのか? と、自責の念が渦巻いていて、自分で自分に「もっとがんばれよ! この怠け者!」と罵っているときに、他人から「がんばれよ」と声をかけられると、もう、言い返せない。

 がんばりすぎたから、体も心も壊れてしまったのに、がんばれない自分に苛立ち、「なんでがんばれないんだ! このウスノロ!」と、自らを罵っている最中に、「がんばれよ」の言葉は、追い討ちをかける。

 でも、声をかけている人は、励ましたいだけなのだ。悪意は全然ない。しかし、悪意が全然ないだけに、「がんばっていない自分、がんばれない自分」が余計に際立ち、自分をさらに責める気持ちになる。自責の念がつのり、どんどん自分を罵るから、さらに心がくじけていき、意欲を失っていく。

言葉につきまとう「裏のメッセージ」

 つらそうな人、苦しそうな人に、どう声をかけたらよいのだろう? 「がんばれ」「がんばって」は、励ましの言葉の定番なのに、それを使っても、疲れ切った人の気持ちを奮い立たせる効果はないらしい。では、どう声をかけたらよいのだろう? 私は、ずっと悩んでいた。

 あるとき、職場でとてもつらそうな顔をして歩いている職員の方がいた。その方は上司とそりがあわず、よく叱られていた。挽回しようと必死になって働いていたのだが、上司はそれを認めようとしない。たまたま廊下ですれ違うときに、疲れ切っている様子が気になった。