阪神淡路大震災の記憶を伝える、三宮東遊園地のマリーナ像。

(篠原 信:農業研究者)

 阪神大震災から24年経った。私は週末ボランティアでしかなかったが、それでも大きな影響を受けた。間違いなく、私の人生観を変えた出来事だった。

 しかし、テレビなどで繰り返し使われる「震災の記憶を風化させてはならない」という決まり文句には、以前から違和感がある。記憶は風化するもの、無茶だなあ、と。

 私たちが実現すべきは、「記憶が風化しても構わないくらいの備えと学び」。記憶を語り継いでも、そこに学びがないのなら、意味がない。

 残念ながら、人間は「忘れる」生き物。たとえその人個人は忘れなくても、世代が変われば記憶は消えていく。次の世代へ語り継いだとしても、それは「伝説」。あの凄惨な第2次世界大戦だって、記憶した世代がいなくなり始めた途端、勇ましく好戦的な意見が増えた。「戦争の記憶を」と言うと、サヨクと呼ばれることもある始末。むしろ反発を受けかねない。

 人間は、前の世代が信じていたことを否定したい衝動があるらしい。この性質を考え合わせると、「記憶を風化させてはならない」という考え方は、むしろ次の世代から冷笑的態度を引き出す恐れがある。「年寄りがまた言ってる」と。これでは、語り継ぐことがむしろ有害となりかねない。

 だから、記憶は風化するもの、してよいものだととらえた方がよい。それが自然なのだから。それが人間心理というものなのだから。その代わり、記憶が風化しても「学び」と「備え」が次世代に継がれるにはどうしたらよいのか、それを真剣に考えた方がよいだろう。

 これまでにも折にふれ訴えてきたことだが、幸い、JBpressという読者の大変多い場を頂いている機会に、もう一度、私が阪神大震災から学んだこと、それを今後生かすと災害に強くなるのではないかと思われることを書きとめておき、ぜひ、「記憶」ではなく、「備え」を次世代につなぐ仕組みづくりをお願いできたらと思う。