ところが、日本には、オランダ等で制定されている「患者の権利法」がない。終末期の治療方針を決める以前に、インフォームドコンセントの徹底やカルテ開示などを医師側に義務付ける「患者の権利法」を制定することが先だろう。ACPはその上に立ってはじめて、患者の「死ぬ権利」を尊重することができることになる。言ってみれば、患者の権利法はACPの土台となる規定なのだ。これがなければ、「共同の意思決定」は絵に描いた餅になりかねない。
一時、日本でも患者の権利法の必要性が議論された時代もあったが、最近は尊厳死法の議論が先行し、患者の権利法は忘れ去られたような格好だ。死に直面した場面でだけ、患者の権利を尊重しますと言われると、終末期にある患者が、医療経済の視点で、死へと駆り立てられているような気になるのは、私だけであろうか。
「脳死=人の死」とする国、しない国
②「脳死=人の死」と認めない国民性
「寝たきり老人が日本に多い」理由には、もう一つある。それは、人の生死について、日本人に特有とも思われる考え方である。脳死の問題だ。
日本は「脳死=人の死」と明確に定めていない国である。2010年の臓器移植法改定の際にもそのことは明記されなかったため、脳死の判定は臓器提供の意思がある場合にのみ行われるという状況は変わらなかった。
ただし、2010年施行の改正臓器移植法では、本人の意思が不明な場合は遺族・家族の書面での承諾があれば臓器提供が可能になった。これにより脳死下での臓器移植の提供者は増えたものの、その件数はいまだ年間80件を下回っている。
臓器の提供数が増えない理由は、おそらく日本人には「心臓死」だけを「人間の死」として捉える考え方が根強くあるからだ。いったん脳死状態に陥った人の意識が戻ることはない。それでも、「心臓が動いている限り、人は生きている。心臓が動いている限り、できるだけのことをしなければならない」と考える人が多い。
目の前で寝たきりになっている患者本人が、意識がはっきりしているときに延命措置などを望んでいなかったとしても、「それとこれとは話が別」とばかりに、できうる限りの治療法を医師に懇願する。
もちろん、意識がない寝たきりのお年寄りから人工呼吸器や栄養チューブを取り外したりすることなど考えないし、まして息の根を止めるような安楽死などもっての外、ということになろう。
これは、一般の人々の考え方だけではない。脳死移植が普及しているイギリス、フランスなどヨーロッパ8カ国では、81.8% の医療関係者が脳死を人の死として認識しているのに対して、日本では脳死を人の死と認めている医療関係者は38.8%に過ぎなかったという報告がある(2006年4月26日、第22回厚生科学審議会疾病対策部会臓器移植委員会議事録より)。
「死体を孵卵器として使用してはならない」
ドイツでは過去にこんなことがあった。
1992年、ドイツのエアランゲン市で、交通事故で病院に搬送された女性が脳死状態に陥った。脳死判定が行われ、生命維持装置が外されようとした時、医師たちはこの女性が妊娠していることに気づいた。そこで、病院側は女性の生命を維持し出産にこぎつけようとした。女性は、生命維持装置につながれたまま生き、妊娠状態が継続された。結局は、この女性は途中で流産してしまい、生命維持装置はその時点で外された。
日本ならば、医療チームが悲劇に遭った女性から胎児を必死に守った感動物語として受け止められるエピソードだろう。
ところがドイツでは、この医師チームの行為が、様々な議論を巻き起こしたのだ。ドイツの女医連合などは、「この女性は死んだのだから、死体を孵卵器として使用してはいけない」と主張した。確かに、死体にも尊厳がある。周囲の都合で人工的に生き永らえさせ利用されるのでは、死者への冒涜になるという考え方もあろう。
ただわれわれがここで注目したいのは、「心臓の機能停止でなくて、脳の機能停止が人の死だ」とする見解である。
これは、近代哲学の父と言われるデカルト以来の心身二元論に基づく、理性(脳の機能)を人間の本質ととらえる見方である。現代英米のパーソン論(自己意識が道徳的権利主体としての「パーソン」であることの要件)にも通じる思想である。
このような人間への理解を背景にすれば、意識を不可逆的に喪失した状態にある人間から、人工呼吸器や栄養チューブを取り外すことは、患者が生前そのような意思表示をしていたとすれば、問題はないのである。