付言しておくと、オランダなどでは、生命維持装置の差し控えや取り外しは、通常の医療の範疇である。だから、「脳死状態の患者から生命維持装置を取り外した医師の責任を問わない」などという特別の法律は存在しないし、立法する必要がないのだ。

 お隣の韓国でも、事実上、脳死=人の死が共通理解となってきている。だから脳死による心臓提供者が2016年度156件と、日本に比べて倍以上である。

 まだ「心臓死を人の死」とする見方が強い日本で、「尊厳死」を法的に認めても、実効的な制度になるかどうかは疑問が残る。植物状態(遷延性意識障害)になった本人は尊厳死を望んでいたが、家族が「脳死=人の死」を感情的に受け入れられない状態で、延命措置を中止することは、家族の心にも深い傷を残してしまうことになるだろう。

 尊厳死を法的に認めようとするならば、まずは「脳死=人の死である」という統一的見解を医療者側が出す必要があるのではないか。そうすれば、心臓が動いていても、意識が回復しないことが明らかな人からはチューブを外すことができるという共通理解が一般の人にも生まれるのではないか。

ヤスパースの警鐘

③医療に対する信頼性

 さらにもう一つ言えば、日本の医師、および医療に対する信頼性を向上させる取り組みも必要だと思う。

 脳死=人の死として1日に1件の心臓移植が行われているドイツですら、提供者の数が減っているという報告が最近あった。ドイツでは、2010年に、脳死下で1293人の臓器提供者がいたのに、昨年、2017年は797人に減った。臓器を必要とする待機者はおよそ1万人いるから、1日3人が提供を受けることができずに死んでいることになる、という現在の状況を問題視するニュースだった。

 世論調査では、ドイツ国民の80%が臓器提供の用意がある、と回答しているのに、現実に臓器意思表示カードを持っている人は36%と少ない。その一因として医療に対する不信感が挙げられた。2013年に起きた「臓器移植順位リスト」の医師による不正操作事件である。

 この事件は、ドイツの4つの権威ある大学病院で、臓器を獲得する目的で、患者データを不正操作し、待機リスト順位を上げることが組織的に行われていたという事件である。ドイツ医師会は、現在でも自ら法律を作る権限を付与された公法上の団体,世界に冠たる「プロフェッショナルな職能団体」である。そこでこのように不正が行われていたことで、医療に対する市民の信頼が失われ、提供者数は激減したのである。

 戦後を代表するドイツの哲学者ヤスパースは、もともとは著名な精神病理学者だった。だから哲学教授になってからも医療についての論文をいくつか書いている。その中には「技術化し、匿名化した医療」についての警鐘を鳴らす文章がある。

「(医師のあり方をも規定する)専門化と特殊訓練化は、現代の一般的傾向である。大企業の技術、大衆の操作から、至る所水平化が生じ、その過程で人間は機械装置の一部になる。判断する力、豊かな洞察力、個人的な自発性は装置化の過程で麻痺される」(『医師の理念』より)。

 巨大システムの中で働く医師たちが装置として匿名化し、その結果、無責任化することの批判である。他方、このような高度に専門化し、分業化し、技術化した現代医療においては、患者が自らの病魔と連帯して闘う人格的なパートナーとして医師を見いだすことは不可能だとも指摘している。なぜなら、そこには匿名化した機能としての一般的な臨床医、専門医、病院医、特別な技術者、実験医、レントゲン医しかいないからだ。

 日本の医療の状況もまさにこの通りだ。このシステム化した高度な医療に、昨今の医療事故や過誤が起きる温床があり、ひいては医療に対する不信感が生み出されるのである。

 確かに、日本の医療の技術や専門性の高さは評価されるべきだろう。一方で、尊厳死や安楽死を制度化させているヨーロッパ諸国は、ほとんど家庭医制度が充実している国だ。普段から医師と患者が信頼関係を築いているから、患者は最後に医師の判断にゆだねることが出来るのだろう。高度にシステム化した日本の医療制度の中で、1人の患者が1人の医師と、「延命措置中止」の判断を委ねられるほどの信頼関係を築くのは相当に難しい行為だ。

 これらの課題を解決しなければ、きっと患者の家族は「できる限りのことはしよう」という自分自身の納得感を得るために、患者本人が望まないような延命措置を続ける道を選ぶだろう。

 であるならば、たとえACPを取り入れた尊厳死法が成立したとしても、チューブにつながれたままの「寝たきり老人」を簡単に減らすことはできないだろう。