それでも、あまりに思ったことをそのままを言う彼女は周りの人とうまくやっていけない。だから、家に籠っているしかない。
一方、津奈木は何も言わない。理不尽な仕事を押し付けられても、あきらめて、黙々と仕事をする。だからこそ、正直な寧子に魅かれたのだろう。空気を読む津奈木とまるで読まない寧子。互いにないものを求めたのかもしれない。ただ、寧子がどんなにまっすぐ津奈木と向き合おうとしても、彼は自分のスペースを固持し続ける。二人の距離が縮まることはない。
「疲弊して折れそうな若者」を菅田将暉が好演
ヒロインを演じているのは趣里。お人形のような愛らしいルックスとハスキーな声がアンバランスで、寧子のエキセントリックさが際立っている。感情をむき出しにしたエネルギッシュな演技が儚そうでいて、実は強い寧子にふさわしい。
芥川賞作家の本谷有希子による同名の原作小説では30代前半の設定だった津奈木は菅田将暉が演じることで、未来のある若者がどんどん疲弊していく生々しさが浮き彫りになる。いまにもぽきんと折れそう。誰よりも「空気を読む」いまの若者がどんなに仕事がつらくても、なぜ何も言えないのか。現実が目に見えるようだ。
生き残るためには空気を読まなければならない。特に幼い頃から「KY」という言葉があったいまの若者は子供の頃から空気を読んできただろう。読まなければ、いじめにあう。死活問題だ。アフリカの野生動物並みにその感度は研ぎ澄まされてきたことだろう。だから、空気の読めない寧子は都会でいないもののように暮らすしかない。
私事だが、姪に誘われて、幸福度の心理テストをしたことがある。40代の妹と50代の私は「生きにくさ」の失点がほとんどなく70~80点くらいだったが、20歳の姪は20点とあまりに点数が低くて驚いた。「あと10年もすれば、いろいろ感じなくなるわよ」と妹は姪をなぐさめていたが、確かに感受性は若者の方が強い。「青春時代の真ん中は胸に刺さすことばかり」と昔のヒット曲でも歌われていた。ただ、寧子ではないが、特に現代の若者は私たちの世代より、より「生きてるだけで疲れる」と感じることが多いのではないだろうか。
SNSを開けば、興味もない相手の知りたくもないリア充自慢があふれ、自分以外の誰もが幸せに満ち足りてみえる。インスタ映えする場所は行ってみれば思いのほか大したことなかったり、インスタ映えする食べ物は味はあまり美味しくないことが多い。でも、実際に触れてみなければ、そのからくりはわからないものだ。
劇中にも自称・イケてる女性が登場する。仲里依紗演じる津奈木の元カノの安堂である。バリバリのキャリアウーマンの彼女はブランド物に身を包み、週末は行きつけのバーで過ごす。一見、いい女風。でも壊れている。そんな安堂に向かって寧子は「私よりおかしいですよ」とズバッと口にする。
確かに普通そうに見えて、彼女もまたおかしい。津奈木との復縁を願う安堂は寧子を津奈木の部屋から追い出したい。そのため、彼女を無理やり外に連れ出し、働き口を見つけてくる。とんだ荒療治だが、誰もが空気を読んで、距離感を保って暮らしている世の中で、彼女くらいおせっかいな人がいなければ、寧子はいつまでも布団のなかから出られなかったに違いない。実の姉さえ、やらなかったことをやってのける安堂なのだが、彼女自身はまったく寧子のためだと思ってやっていないところがおかしみを感じさせる。