世界には、至る所に、いまだだに「カミカゼ」で突っ込んでくる特攻兵は理解不能なイエローペリル=「黄禍」と思う人が、特に米国には決して少なくないように思われます。

 ちなみに、欧州では現在でも「原理主義テロリスト」の無差別殺人が続き、最大級の警備体制が敷かれ、莫大な予算が投下されていますが、9.11テロに関わった人物が釈放され、国外追放されるというニュースが報じられています。

 出た被害の多さから「血のバランスシート」のごとく、大量処刑などを執行しないと社会が納得しないといったシナリオは、ナチス以降のヨーロッパでは完全に棄却されています。

 7月に発生した某国某事案が決定的な引き金を引き、ついにはローマ教皇フランシスコがカトリックの教義を書き換え、死刑制度の全面禁止に転じましたが、これらについては別稿を準備したいと思います。

「忘れられた壁」はなぜ「忘れられた」のか?

 先ほども「ベルリンの壁」には真空地帯というべきエリアがあり、そこを走って逃れようとする難民に銃口が向けられた経緯に触れました。

 壁の建設に当たって、当時のソ連指導者フルシチョフは「国境を1ミリも出ないように」と東独指導者、壁の敷設責任者は後に国家を率いたホーネッカーその人に厳密にクギを差しました。

 最低でも2本の線で区切られた「真空地帯」の内側の一部が、「崩壊」以後も建物や緑に囲まれて、壊され損ねたまま残っていたというのが実情のようです。

 今回も、あえて東京の地理になぞらえるとすれば、このエリアは皇居に面した内堀通りを北上した気象庁から御茶ノ水に抜けるエリアと似ているかもしれません。

 日比谷通りと本郷通り、やがて日本橋を過ぎれば東海道となりますが、この2つの通りに挟まれたエリアの、区切りのよいところまで占領地域が伸びているような形で、「忘れられたベルリンの壁」が取り残されたような形になっている。

 壁の外側は西側各国が進出して、東京で言うなら、高度成長期に「秋葉原電気街」が発達し、また壁の南側、シュプレー川ならぬ神田川を挟んで京橋、日本橋、銀座方面の伝統的な中心街はソ連が占領。