そして城山高校の片岡。

「連合になって・・・なんて言うんでしょうか。高岡はみんながうまくて、レベルも違った。自分はもう必要とされていないんじゃないか・・・そう思いました」

 片岡は、中学時代に野球部を退部していた。

「野球は好きやったんです。それで中学で野球部に入ったんですけど、人間関係も練習もきつくて2カ月で辞めてしまったんです。高校に入学して、もう一度野球部に入りたいと両親にお願いしたとき、すごく反対をされました。でも何とか説得をして『これが最後やき、辞めたら知らんで』と言ってもらってもう一度、野球部に入ったんです」

 しかし連合を組んですぐ、片岡は退部を申し出る。両親に啖呵を切ってまで入った野球をわずか半年で「辞めたい」・・・そう思うほど、連合とのレベルの差に悩んだ。

 片岡が退部を顧問に申し出たときのこと。「僕が連合にいると迷惑をかけてしまう」と、思いを伝えると、顧問は言った。

「お前がいたら迷惑なんじゃない。お前がいなくなったら迷惑なんだ」

 片岡はそのときのことをこう述懐する。

「そこではじめて自分が必要とされているということが分かりました。もう少し、頑張ってみようと思えたんです」

「高岡・城山」の2校連合、「高岡・窪川・西土佐」の3校連合、そして2014年の4校連合チームと、それぞれで指揮を執った高岡高校の監督・高橋司は「連合チーム」について言った。

「そもそも、練習をするだけで大変なんです。同じ学校じゃないですから、平日には集まれません。みんなが揃うのは土日だけ。窪川高校に集まるんですけど、一番近いうち(高岡)からで50キロ弱の距離。西土佐は60キロくらい、城山は80キロを超えます。9時から練習をするのであれば7時にはそれぞれの学校に集合して、保護者のかたの助けを借りて移動する。そんな中で、一日厳しい練習をして帰るわけですから大変ですよ、選手たちは」

4校連合の指揮を執った高岡高校の高橋先生(当時)。(撮影:秦昌文)

 2年半の高校野球人生において、ふつうの球児たちとは違った経験をしてきた彼らは、そして2014年の秋季大会でベスト4に進出する躍進を遂げた。1年半ぶりの公式戦を戦った城山・片岡が言った。

「連合になって、実際きついこともあって、怒られたり気持ちが落ちた面もあったんですけど・・・なんて言うんでしょう。楽しかったのとうれしかった。春の大会、試合には出られなかったんですけど、ほかのチームの監督さんが『(連合の)ランナーコーチは胸を張ってコーチャーズボックスに走っていた』と言っていただいて、見てくれている人がいたんだ、と感じました。それに大会で勝った経験がなかったので、勝つ喜びがありました」

 4校連合チームのコーチャーは片岡の役割だった。

 試合ができない高校野球生活に、野球ができる喜びが加わり、そこから勝つ喜びを知った。何より、最高のチームメイトと巡り合った。ある選手は「野球ノート」にこう綴っていた。

「この連合チームは高知県、いや日本一最高のチームです」

 それは、学校は違えども、14名に共通した思いだった。

 しかし――彼らにとっての試練はここからやってくる。県大会ベスト4という結果は、甲子園が見えるところまできた、ということでもある。ところが、彼らにはそれができなかったのである。