要件が緩和された年に入学した高岡、窪川、中村高校西土佐分校、城山の4校の選手たちは、4校連合チームとなるまでも、この制度を利用しそれぞれ単独、連合による出場を繰り返していた。

 2014年に各高校の主将を務めた4人の「高校野球の足跡」はこうだ。

 高岡高校の山本寛治。1年生(2012年)の夏に単独出場を果たしたが、その後部員が不足し城山高校と「高岡・城山連合」の2校連合を組み秋季、翌13年の春季大会を戦った。2年生(2013年)時は夏に単独出場し、秋季大会は窪川、中村高校西土佐分校と「3校連合」を組んだ。

 窪川高校の佐竹通と中村高校西土佐分校の松浦友人。1年生の夏、単独出場ののち秋季大会から2013年夏まですべての大会を「窪川・西土佐」の連合で臨んだ。その後、先の高岡と3校連合となり2014年の春の「4校連合チーム」となる。

 もっとも大変な道のりを歩んだのは城山高校の片岡崇也。1年生の夏に単独出場後、秋・春に「高岡・城山連合」となるが、2013年は一度も公式戦に出場することができなかった。高校野球最後の年、2014年の2月に4校連合チームとなってようやく公式戦のグラウンドに立つ資格を得ることとなったのだ。
 
 連合を組む。そこには試合ができる喜びが当然ある。ただ、それだけではない。選手、指導者それぞれに複雑な思いを抱えている。

 高岡の山本は、城山とはじめて連合を組んだときのことをこう回想した。

「人数が足りなくなって、試合がしたくて連合を組むという感覚でした。(別の高校と一緒になる)緊張もあったけれど、野球ができると思ってうれしかったという気持ちが強かった」

 また、窪川の佐竹。

「人数がいないからできない練習も多くて。連係プレーの練習ができることがうれしかったです」

 野球を精一杯できる喜びにあふれる選手がいる一方で、西土佐分校の松浦は違った気持ちを抱いていた。

「(初めての連合で、窪川と組むとき)話を聞いて、最初はすごく嫌で・・・(もうひとりの同級生の)浜田と一緒に、いつ辞めようか、って話までしていました」

 この松浦と浜田は、ふたりとも二つ上の兄がいて、ともに西土佐分校で野球をしていた。そして兄が3年生になったとき、選手が足りなくなることを知っていた。中学生だった2人の「弟」は、「2人で西土佐分校に入って兄のチームが試合に出られるようにしよう」――結果的に、1年夏に単独出場をかなえたものの、残った選手も彼ら2人だけだった。まともな練習ができず「日々つまらなかった」。そこにやってきた連合チームの話だったにもかかわらず、不安の方が大きかった。