監督の高橋は言う。

「ここ(ベスト4)から残り4カ月、ふつうであれば甲子園を目指そう! となるんですけど・・・連合を組めるかが分からなかったんですね」

 県大会直後、4月に入り城山をのぞく3校に新入部員がやってくる。各校の部員数が増え、窪川と城山が4名ずつ、西土佐と高岡が5名ずつとなり合計が18人となった。窪川・西土佐、高岡・城山の2校連合で9名ずつとなり、“数字上”チームは成り立つのだ。高橋は言った。

「確かに18人いたんですが、病気やケガで動けない選手や、家族の問題があってほとんど練習に来られない選手もいました。そういう生徒も入れての18人なので、2校ずつに別れろと言われた時点で、彼らの夏はほぼ終わってしまう・・・。何より、高校は違ってもチームとしてここまで一緒に戦ってきた思いもある」

 できることはしたい、と高橋をはじめとした各校の指導者で集まり話し合いをした。そして、高知県高野連に「なんとかこの4校で夏を戦わせてほしい」と嘆願した。

「その一方で、選手たちには現実的な話もしなければいけません。『(4校連合が)ダメと言われたらダメだからな。この段階で別れろと言われたら仕方ない、その覚悟はしておいてくれ、と』伝えました。毎週、一緒に練習はしているんです。でも春以降、彼らは夏に気持ちが向かなかったですね。夏は甲子園だ、という気持ちにあの子たちはならない。いや、なれなかったんですよね」

 春季大会が終わってすぐ選手たちに書いてもらったレポートには「甲子園」の代わりに「テッペン」を目指すと書かれていた。注目度も上がり、取材が来ても「甲子園に行くぞ!」とは誰一人として口にしなかった。

 もうこのメンバーで野球ができないかもしれない――「高岡・窪川・西土佐分校・城山4校連合」の夏はなかなか始まらなかった。

 5月17日。春の大会が終わって1カ月半以上が経った土曜日。

 4校の選手たちはいつものように数10キロ離れた窪川高校のグラウンドに集まる。1週間ぶりに顔合わせ、白球を追う。この数カ月繰り返してきた、いつもの土曜日。

4種類のユニフォーム、毎回ドロドロなるまで練習をした。(撮影:秦昌文)

 監督の高橋はあの日を忘れない。

 選手を集め、ゆっくりと口を開いた。

「4校連合について高野連のほうで、なぜ9人と9人じゃ駄目なんだ、と相当揉めたようだ」

 選手たちの顔を見回す。張り詰めた空気を感じた。何より、高橋自身が緊張していた。そして「でも」と切り出した。

「高知県高野連の理事長をはじめ心ある方々に、全面的にバックアップをしてもらって、・・・認めていただいた」

 その一言を伝えると、堰を切ったように言葉が止まらなくなった。

「お前たち、やっと胸を張って甲子園って言えるな。ふつうの高校生たちが口にする言葉をやっと言えるようになったね。2カ月かもしれんけど、その2カ月は胸を張って甲子園を目指そう。大きい声で口に出そう。これでもか、ってくらい甲子園を口にしよう。俺も、言う。そんなんで甲子園にいけるか! って俺も言う。あと、2カ月かもしれないけど胸を張って目指そう」

 話している途中、込み上げてくるものを抑えるのに必死だった。息をついで、選手たちの顔をふたたび見る。その瞬間、もう堪えることができなかった。

(松浦や浜田は、兄貴のために西土佐分校に入った。連合の制度がなかった時代だ。自分の甲子園がないかもしれないことを覚悟していたはずだ。片岡は連合になってつらい思いをしただろう。山本も佐竹もみんな・・・こんなに野球が好きな子たちが・・・)。

 高橋は溢れる涙を止められず、話し続けた。

「俺は、お前たちと目指したい。甲子園を目指したい」

 松浦は号泣していた。浜田も、山本も、佐竹も片岡も・・・3年生がみな、泣いていた。

 2014年7月21日。