当時、マスコミが描いていた事件の構図はおおよそこんなものだった。

<建築コストを抑えるために、ヒューザーと木村建設が姉歯に圧力をかけて、強度不測のマンションを建て、暴利を貪っていた>

“首謀者”と目された小嶋は、連日、猛烈な批判に晒された。

耐震偽装事件の「首謀者」としてバッシングを受けた当時を語る小嶋進氏

 だが本当の耐震偽装事件の構図は、もっと大きなものだった。その後、他の建築士による構造設計書偽造や、イーホームズ以外の検査機関での偽装見逃し、耐震強度不足のマンションやホテルを造っていたゼネコンやデベロッパーの存在も明らかになる。国が定めた確認検査方法や、建物の構造計算を行う大臣認定プログラムの不備も明らかになった。

 が、逮捕されたのは前述の5人だけ。しかも、耐震偽装事件での逮捕は姉歯のみだった。小嶋を含む他の4人は、別件逮捕だ。つまり、耐震偽装事件そのものは構造設計書を偽造した姉歯の“個人的犯行”だった。

 小嶋の逮捕容疑は「詐欺罪」。藤沢市に造ったマンションが耐震強度不足であることを知りつつ、顧客に引き渡していたとされた。

 その後の一審判決では懲役3年、執行猶予5年が言い渡される。小嶋、検察側双方ともに上告するが、二審は訴えを棄却。小嶋は最高裁へ上告したが、2011年12月の判決はこちらも棄却、小嶋の刑は確定した。この間、小嶋は一貫して無実を主張してきた。無罪判決こそ得られなかったが、耐震偽装事件が姉歯の単独犯だったことは、裁判でも証明された。

「役人のリークにまんまと乗ったマスコミにはずいぶん叩かれました。結局、彼らの見立ては間違っていたわけですが、謝罪に来た記者なんて1人もいません。世の中的には、私は今でも“稀代の大悪人”のままです」

挫折続きの青年時代

 小嶋は、1953年(昭和28年)、宮城県加美郡色麻町で4人兄弟の次男として生まれた。実家は農家で、父はその傍ら農業協同組合の組合長を務めるなどしていたが、裕福な家庭ではなかったという。

 高校は進学校の県立古川高校に進んだ。実は小嶋は、幼いころから「総理大臣」になることを夢見ていた。そこで政治家になるべく、政経学部や法学部への進学を目指していたのだが、小嶋によれば、担任教師から理系学部を強く勧められたのだという。

「これからはエレクトロニクス・電子の時代だ、ということで、東北大学の工学部に進めと。しかもその先生は、自分は第一志望の大学に受からなくて、第二志望の学校に進んだことをものすごく後悔したそうなんです。だから、『小嶋、お前は先生みたいな失敗をするな。第一志望だけを受けて、ダメだったら1年後にまた受けろ。一浪すればお前なら絶対に合格できるから』ということで、東北大学の受験しか認めてくれなかったんです」

 ところが受験は失敗。挫折感を味わいながら、小嶋は仙台で新婚生活を送っていた姉夫婦のアパートに住まわせてもらいながら浪人生活を送ることになったという。

 ここからしばらく、小嶋の人生は挫折の連続だった。