本土復帰した沖縄で産業の柱になった果物

シークヮーサーと沖縄の人々の“共生”(前篇)

2018.02.09(Fri)漆原 次郎
シークヮーサー。加工せずに食するときは熟したものを採る。

 人は昔から果実を採ってきた。

 はじめは身の回りにある樹木の実を食べていただけだろう。だが、その後は「栽培」という形で果樹を保護するようにもなる。植物が人の手で実や種を実らせ、人が植物から果実を得る。ここには果樹と人間の“共生”がある。

 私たちが多種多様に味わっている果実「柑橘類」の中から、そんな“共生”の姿を沖縄の「シークヮーサー」に見出したい。日本の柑橘類の多くが外国由来とされるなかで、古くから当地で自生してきた、人と関わり深い果樹だからだ。

 沖縄の人々は近年、シークヮーサーを産業目的で育てるようにもなった。だが、ずっと古くからシークヮーサーが人々を生かしてきたという見方もできる。この2つの関係はどうなっていくのだろう。

 前篇では、シークヮーサーと沖縄の人々が、いかに互いの利益を交換してきたかを見ていく。後篇では、現代において人々が築こうとしている、この柑橘類との新たな関わり方を見てみたい。

日本の柑橘類、最古の文献は「持ち帰り」

 日本で最初に柑橘類が記録として現れたのは、720(養老4)年に成立した『日本書紀』にて。その記述は、果実を“外国”から得てきたというものだ。

 田道間守(たじまもり)という人物が第11代天皇だった垂仁天皇に命じられ「常世(とこよの)国」へ行き、「非時香果(ときじくのかくのこのみ)」を持ち帰ってきたが、天皇の死後だったので陵墓に献じて自害したという。「常世国」は遠くの国の意味。「ときじく」は「いつも」の意味で、いつも香りの消えないところから、この果実は「タチバナ」の実とされる。

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