石井 そこに渋沢の合理性があるといえます。1920年代は日本の経済状況も悪化しました。恐慌や銀行の取り付け騒ぎが起こります。また、1923(大正12)年には関東大震災もありました。

 その中で、国の利益や経済の安定を守るためにも、アメリカとの関係悪化を避けたかったといえます。また、排日運動をここまで阻止しようとしたのも、単に良好な日米関係を維持したかっただけでなく、日本の人口が増え、さらに工業化で雇用環境が変わる中で、日本人が海外に移民として渡り、職を得て生活することを肯定していたからとも考えられます。

 結局、渋沢たちの活動は実らず、1924(大正12)年にいわゆる「排日移民法」がアメリカで成立しました。ただしその傍らで、渋沢はアメリカへの移民が制限される中、南米などへの日系移民のプロモートを行っています。移民を肯定的に考えていた証拠と言えるでしょう。非常に合理的に、日本の経済や雇用を見据えて外交をしていたといえます。

「青い目の人形」はなぜ実現したのか。

渋沢 栄一(しぶさわ・えいいち):1840〜1931年。埼玉県の農家に生まれ、若い頃に論語を学ぶ。明治維新の後、大蔵省を辞してからは、日本初の銀行となる第一国立銀行(現・みずほ銀行)の総監役に。その後、大阪紡績会社や東京瓦斯、田園都市(現・東京急行電鉄)、東京証券取引所、各鉄道会社をはじめ、約500もの企業に関わる。また、養育院の院長を務めるなど、社会活動にも力を注いだ。(写真:国立国会図書館

――そういった視点に基づいた民間外交だったのですね。

石井 そうですね。アメリカとの関係改善は、「排日移民法」の施行以降も続けられます。たとえば、1926(大正15)年には日本太平洋問題調査会が設立され、渋沢は評議員会会長に就任しています。

 1927(昭和2)年には、有名な「青い目の人形」のエピソードが生まれます。きっかけは、アメリカ人宣教師シドニー・ギューリックの提案でした。日米関係の悪化の中で、日本の雛人形や五月人形の風習になぞらえ、日米の子ども達で人形を交換するというアイデアです。

 当時87歳の渋沢は、日本の誰もが知る存在でした。日本政府への協力の要請に対する回答がなかなか得られない中、ギューリックは彼に掛け合ったようです。以前も話したように、渋沢は良いと思ったアイデアには賛同し、実行に移す人です。ここも例に漏れず、実現のために彼は日本国際児童親善会という組織を立ち上げました。