――わざわざ組織を立ち上げたんですか?

石井 はい。これは渋沢の社会事業における大きな特徴です。政府が行う事業ならまだしも、民間の場合は組織がないと周囲への説得力が生まれません。また、彼の社会事業は継続性・持続性に重きを置いています。そこで、組織からきちんと作ることを重視しました。

 これは別の社会事業でも多数見られます。新しい事業を始める際は、まず協会などの組織を立ち上げて、自ら上位の役職に就き、組織的に進めるケースが非常に多いのです。

 本件でも、彼は日本国際児童親善会の会長に就任し、ギューリックのアイデアの遂行に協力しました。アメリカからは約1万2000体もの“青い目の人形”が贈られました。そして日本からは、外務省などの協力を得て58体の市松人形を贈ったのです。

――最晩年の時期にやるのですから、関係改善への思いは相当に強かったのでしょう。

石井 そうですね。これだけ合理的な人ですから、民間外交の目的として「日本の地位向上」も考えていたかもしれません。当時、アジア諸国の多くは欧米の植民地になりつつありました。独立を保つ国の方が少数派だったほどです。自国の独立を保つためにも、外交によって、常に日本が対等の立場にあることをアピールする。そんな計らいもあったのではないでしょうか。

ボランティア精神だけではなく、その先の経済を見据えていた

――渋沢の「合理性」が分かってきました。

石井 彼は、社会貢献事業をただやりたかった人、ボランティア精神に熱かった人というだけではなかったはずです。医療や福祉を充実させたこと、商業高校や女子教育に力を注いだこと、そして国際関係の改善を計ったこと。全てにおいて、必ず「国の繁栄、経済の発展につながる」という見立てがありました。当然それは、個々の企業の利益や成長にも跳ね返るわけです。

 ですから、渋沢は非常に広い視点を持った経済人、実業家だったと言えます。貧富の差がなくなり、教育レベルが上がり、国際関係が良くなれば国が豊かになる。国が豊かになれば、社会・経済が豊かになる。言葉にすれば当たり前のような循環ですが、それを自然にできていたのが渋沢栄一でした。