今春、江戸時代の日本の外交姿勢をたとえる「鎖国」という言葉を教育指導要領に含めるか否かで世論が沸騰したことは記憶に新しい。実際はオランダや中国と交易関係があったと解釈する学問上の定説と、「鎖国」という単語に慣れ親しんだ世間の感覚とのズレが議論の原因だった。
他方、現代の中国においても「鎖国」が進んでいると聞けば、やはりピンとこない方が多いことだろう。
2016年の中国の貿易総額は3兆6850億ドルで世界2位、一帯一路政策を提唱する中国首脳部は毎日のように各国の首脳とよしみを通じ、国際社会におけるプレゼンスの拡大を図り続けている。現在、中国はボリュームの面においては史上最も海外との接触が多い時代を迎えていると言っていい。
だが、中国を訪れる外国人の肌感覚として「鎖国」はリアルな言葉だ。すなわち、われわれ外国人の多くは、現代中国の一般市民が当たり前のように享受している便利なサービスの多くを利用できず、また自国で使っている多くのサービスが中国では使えないためである。
しかも、この不便さは中国の社会が「遅れている」から発生するのではない。中国では(特にITの分野では日本以上に)先進的でスマートなサービスが数多く提供されているにもかかわらず、これらがほぼ意図的に中国国民のみに特化した提供形態を採用しているため、下準備をおこなわない外国人だけ大きく割を食うハメになっているのだ。
砂漠で自分の目の前に水がたっぷりあるのに、ヨソ者の自分だけがそれを飲めないもどかしさ。これぞ現代の中国における「鎖国」の正体である。