言ってみれば、この夜は「予行演習」なのだが、それでも本番同様、線路を封鎖して作業に臨んでいる以上、万が一にも始発列車までに作業が終わらないということがあってはならない。息苦しいほどの気迫と緊張感がみなぎる。
ひときわ真剣な面持ちで作業員の間を行ったり来たりしているのは、日本コンサルタンツの小松博史さんだ。今年2月まで、2年10カ月にわたり保線管理の技術指導プロジェクトの専門家として、毎朝現場に立ち続けた。
ヤンゴン近郊だけでなく、ミャンマー各地で鉄道の維持管理に携る実務者たちを数十人ずつ集めては1カ月間の集中訓練が繰り返されたこの協力によって育ったミャンマー技術者は、約600人に上る。現在は、この分岐器交換作業の支援にあたる小松さん。
しかし、保線指導の時から「我々はあくまできっかけを作るだけ。いつかはいなくなるのだから、彼らが自立して作業を進められるようにならなければ」と言い続けていただけあって、この夜も時折、短く指示を出したり、手元の時計を確認して進捗をメモしたりするだけで、決して自ら手伝おうとはしなかった。
時計とのにらめっこが続いた作業は、結局、予想よりかなり早く、4時間45分で終了した。「作業を行う線路によって終列車から始発までの時間は異なるが、この時間で終わるなら本番も大丈夫だろう」と、小松さんはひとまず胸をなでおろす。
とは言え、交換箇所は81カ所に上り、新しい装置が日本から到着したら、ほぼ毎晩、夜間作業を行わなければならない。作業を行う場所の順番や実施体制について、引き続きミャンマー国鉄側との間で入念な調整が行われる。
ミャンマー版山手線
ミャンマー国鉄にとって初めての経験となったこの夜間作業を見守る人々の中に、オリエンタルコンサルタンツグローバルの長澤一秀さんの姿があった。ヤンゴン市内を一周する環状鉄道の改修と近代化に向け、2015年12月より実施されている詳細設計調査の総括だ。
ヤンゴン環状鉄道は、もともとヤンゴン(当時のラングーン)と約280キロ北西にあるバゴー管区のピィを結ぶ直線の路線として営業運転を開始した。日本で新橋~横浜間に初の蒸気機関車が走り始めて5年後の1877年にこの国で初めて建設された鉄道がこの区間だったのである。
その後、東側半分が建設され、総延長46キロ、38駅という現在の環状線の形になった。いわばミャンマー版山手線とも言えるこの路線は、中心部への二輪車の乗り入れが長らく禁止されてきたヤンゴンの街で、通勤や通学、行商に出かける人々を支えてきた。1日あたり122本の列車が運行されている。
しかし近年、施設や機材、車両の老朽化などに伴い、速度が時速約15キロしか出せなくなっているため、一周約46キロを回るのに約3時間かかっている。山手線の約1.3倍の距離を約3倍の時間をかけて走っている計算だ。
遅延や脱線も多く、バスを利用する市民も少なくない。さらに、2011年に完成車の輸入が解禁され、日本をはじめ海外からの中古車輸入が急増したことから、ヤンゴン市内の道路交通は、数年前とは比べものにならないほど渋滞が激しくなっている。
このため、日本政府は2015年、ヤンゴン市内を一周する環状鉄道の改良と近代化の支援を表明。その後の協議を経て、将来的な電化も見据え、ディーゼルエンジンで発電してモーターを回す電気式ディーゼル気動車(DEMU)66両の導入と、1周の信号システムや踏切の改良は日本が、軌道や土木工事はミャンマー政府自身が行うことで両国が合意した。
これを受けて今後、環状鉄道でも分岐器や転てつ機の交換が行われることから、長澤さんたちもこの夜の作業を視察に来たというわけだ。