私たちの手足には5本の5指がありますが、特に手指は独立に動いて巧緻性に富み、様々な文化を発達させてきました。一方、蛙の手足にも指がありますが、特に足の指の間には水かきがあるものがおり、素早く泳ぐのに役立っています。

 陸上で生活する動物はすべて、生命発生の当初は海中で進化し、ある時期に上陸して地上での生活適応した歴史があり、この進化史を個体の発生でもなぞっています。

 人間のあかちゃんはお母さんのお腹の中で受精卵として存在し始めてから、この進化のプロセスをなぞり直す面があり、胎児の手足の指も最初は塊として作り出され、次第に分化していく過程で、指と指の間にある「みずかき」のような部分が消え、10月10日経ってこの世に生まれるときにはきれいに指が解れた赤ちゃんとして誕生する。

 このように、発生発達の過程で作り出される、いわば建築現場の足場のような部位が、あらかじめ計画されたレシピに従って除去される「細胞の死」がアポトーシス、つまり「計画された細胞死 programmed cell-death」というわけです。

 このような機構の存在自体、考えてみれば当たり前ながら、従来は誰からも問題にされず、発見の当初から衝撃をもって迎えられたわけです。

私たちの「死」には、一部が死ぬことで全体が生きるような死が存在する。

 考えてみれば恐ろしい話です。下手に一般化すれば、特攻隊やジハードを正当化しかねないシナリオにも転用されてしまうかもしれない。

 サイエンスの観点からは厳密にそういう乱暴な議論がないように注意しつつ、あらかじめ準備された細胞死という生命の驚くべきメカニズムを人類は理解し、私たちがいまだ克服できていない癌を始めとする疾病治癒への応用が図られている。

 でもアポトーシス自体は何かに役立つというような代物ではなく、非常に本質的な生命分化の基本メカニズムであるわけです。「何かに役立つ」ではなく、あらゆるものの基礎にある「もう1つの死」という事実の存在自体に、私たちは童心をもって驚異すべきでしょう。

 そのような意味で完全に基礎的、本質的な「第3の死」と再生の事実を、たった1人の日本人が、大半は目黒区駒場あたりのお世辞にもきれいとは言えない建物、潤沢とは言えない資金、およそ厚遇とは言いがたい環境の中で、独力で解明し、人類の「死」の概念を新たに塗り替える仕事をした。

 それが大隅さんの確立された「第三の細胞死概念」自分自身で自分の細胞をスクラップ&ビルドするという新たな「死」自食作用すなわち「オートファジー」の仕事にほかなりません。