2016年は、文化大革命が発動されて50年目の年である。1966年5月16日、党中央政治局拡大会議は「文化大革命小組」(指導グループ)の設立に関する通達を発表し、これが実質的に文化大革命のスタートとなった。
それから文革は10年間続き、1976年、毛沢東の死去とともに終焉した。共産党中央委員会は文革が誤りだったことを認め、文革によって打倒された知識人や共産党幹部たちの多くが名誉を回復した。
しかし、鄧小平の主導による文革の清算は不十分だった。文革のほとんどの責任は毛沢東が負うべきものだったが、共産党中央委員会の総括では毛沢東夫人の江青女史をはじめとする四人組(江青、張春橋、姚文元、王洪文)に責任が押し付けられた。
四人組は毛沢東が死去してから1カ月後に逮捕された。のちに開かれた四人組の裁判で江青女史は「私なんかは毛主席の番犬のようなもので、毛主席に言われるがままに人を噛んだだけだ」と弁明した。四人組には死刑または無期懲役、懲役20年の刑が宣告された。だが、毛沢東の罪は問われなかった。これこそが鄧小平主導の文革処理の最大の問題である。
なぜ毛沢東の責任は問われないのか
中国国内では、文革に関する多くの資料がいまだに公表されていない。文革研究のほとんどは、毛沢東の秘書や共産党幹部の一部が記した回顧録をもとに行われている。
文革が発動された理由として最も説得力のある解説は、毛沢東が、文革の前に自らが発動した「大躍進政策」が失敗したため、責任を問われることを恐れて文革を発動したというものだ。