まわりに倣って私も番台に小銭を払うと、黒いニカーブを着た番台のおばさんが、荷物を見せろと言う。私の荷物の中にカメラがあるのを見とがめ、「NOカメラ」とすごい剣幕で言う。
もちろん風呂の写真を撮るつもりはない。とアラビア語で説明することはできず、確かにこの国では女性の肌や素顔が写真に撮られたら一大事なので、おばさんが警戒するのも分かる。私は諦めてカメラを渡した。
日本の銭湯のような更衣所に服を脱ぎ、風呂場に足を踏み入れるとそこはひんやりと薄暗い、まるでモスクの中のような静謐な場所であった。
水場のまわりにおばさんたちが大きな身体を揺らす。日本の銭湯で見かける日本のおばさんたちと同じような身体で、同じものがついている。彼女らは桶を私に手渡して、これで身体を流せという。言われるとおりにやっていると、また別の誰かがスカスカのへちまを投げてよこし、これでこすれと言う。水は冷たかった。
裸のおばさんは体を洗いながら、同じように裸のアジア人である私を、じーっと見ている。「天空の城ラピュタ」に出てきそうな、海賊の棟梁の貫禄のおばさんである。
「外国人かね」 おばさんは聞く。
「日本です」
「日本・・・旅行かね」
「そうです」
「サナアは好きかね」
「はい。とてもいい町。とてもいい人。おいしいごはん」
「ありがとうね」
アラビア語でのコミュニケーションはこれが限界だったが、それでもこれは、風呂の壁一枚隔てた外の世界では起こりえない、ニカーブの女性たちとの顔を突き合わせたコミュニケーションだ。
街路では見かけない女性の肌色がいくつも、薄暗い銭湯の中でぼうっと浮かび上がる。外では外国人に自ら声をかけることのない女性たちは、風呂の中では快活で、興味津々で、世話焼きだ。でもニカーブの下でも彼女たちは、本当はいつも世話焼きなのだ。外でも、中でも。見えないものを、一度目にすることで、それ以降、想像ができるようになるのだ、と私はおばさんたちの裸に思った。
それからというもの、道行く女性を見るとその無表情に見えるまなざしの下に小さな関心を見るようになった。目が合うと「外国人かね」が聞こえるようになった。ニカーブの下に彼女らのリアルな微笑みを数え、リアルな舌打ちを聞き、つまり彼女らの裸の姿を見るようになった。それはいやらしい意味ではなく。