2015年5月30日に全線再開通した仙石線の、「高台移転」した野蒜駅。旧線・駅とともに海側に低地に広がっていた街地、住宅を、山地を切り開いた台地に移転する復興計画に沿ったものだが、まだ生活の場は土木工事中で、毎日の乗降客は数十人ほどだという。低地に残る人、転居する人も多く、この高台の将来はまだ見えてこない(筆者撮影、以下すべて)

 東日本大震災・津波の発災から5年。このコラムでも折に触れて紹介してきたように、筆者は自らクルマを走らせて現地の道を走り、被災から復興へと移り変わる状況を確かめる機会を作ってきた(参考「4年目の被災地、コミュニティ再生につながる交通インフラを」)。年に何度かという頻度であり、点(場所・人)と線(道路)をつなぐ体験であって、決して網羅的な取材とはいえないけれども、それでも見えてくるものは少なくない。

 今冬は、本州太平洋岸の北端ともいえる青森の大間から南下するルートをたどってみた。既出のレポートと重複する部分も多いけれど、昨年までの走行観察と比較しながら、今の現地では「何が進んでいるのか」あるいは「進んでいないのか」を整理してみたい。

5年でダンプカーの積荷はどう変化したか

 この5年間、この地域を「縦走」すると、クルマがとても汚れる。細かなパウダー状になった土が道とその周囲を覆うように広がっているからだ。

 その土ぼこりがどのようにして生じたものなのか、それが年々変化してきている。2012~2013年は、被災現場の瓦礫を取り除き処分場に運ぶダンプカーが連なって走ることで、道を覆う泥や砕けた建材が埃として舞い上がり、視界をふさぐほどだった。

 2014年に入る頃からは、内陸側の山肌が削り取られ、そこから狭く曲がりくねった山道を通って海辺まで土砂を運ぶ車群が幹線道路に集まって連なるようになった。最大の津波でも大丈夫な高さまで地盤をかさ上げする大土木工事のための土砂移送である。その輸送の中で土はこぼれ、空中に舞い上がる。

一面の土平原となった津波被災地に並ぶ盛り土の「台形ピラミッド」。今年は各地にこの風景が現れた。これらはまだ「素材」の段階で、ここから土壌改良を加え、層を重ね、端面部の斜面構造も作り込んで「かさ上げ台地」が形作られるのだという
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