ギリシャの海岸にラブレター漂着、紙面で持ち主捜し

ギリシャのレスボス島に到着する移民や難民(2015年10月10日撮影)〔AFPBB News

 誰もが目にしている光景から、人が見出してこなかった別の法則性や秩序、新たな現象などを見出し、これ以降誰もが使えるようにすること。

 ノーベル賞を筆頭に「価値ある業績」とされるものの多くが、こういう共通の性質を持っています。ではどうしたら、そういう「業績」を挙げる人材を育てることができるのでしょうか?

 この問いに、逆側から答えるのが

 「こういう教育をしていたら、絶対に創造的な業績など挙げられない」という負の事例、反面教師の例示だと思います。

 例えば、紙の上だけ、文字面だけで多くの「知識」を丸暗記させ、小耳に挟んだことと合致する解答を書けばマルをやり、自分で工夫してあれこれ考えたものにはすべて×をつけ、それで定期試験のみならず入試や入社採用、勤務評定などもすべて「ありもの」との比較でパターンをなぞる人材を作っていけば、どうなるでしょう。

 ほぼ確実に 個人の創造性は失われてしまいます。

 こういう教育あるいは人事評価、どこかの国で非常にしばしば見るような気がしますが、それは私だけの勘違いでしょうか?

 残念ながら、日本社会そのものは、全く創造的な風土ではないと思います。

 それでも、例えば中国、韓国、台湾、北朝鮮など東アジアの隣国に比べて、はるかに創造的な業績が生まれやすいのは、上記のような困ったケースから外れる「例外」が、100年、150年という長さで続いてきた、その細いけれども長い、地道な取り組みがあるからだと思うのです。

 この中で「自分の頭で考えて、納得したものだけを前提にする」という論理思考の基本を、古代ギリシャの哲学者たちに倣って「幾何」で検討してみたいと思います。

論理思考とは何か?

 よく知られた逸話ですが、プラトンは自ら開いた学園「アカデメイア」の門に「幾何を知らざるものはこの門をくぐるべからず」と記したといいます。

 幾何と言うと、三角とか四角、あるいは円などを扱う「図形問題」と思われがちですが、原語はジオメトリー(Geometry)、「Geo」が地面で「metric」は計るということですから「測地学」と呼ぶのがより正確な表現になるでしょう。

 この学問が古代エジプトやメソポタミアで発達した背景には「灌漑農法」があります。

 「エジプトはナイルの賜物」という言葉が知られる通り、古代人の未発達な農具でも容易に耕すことができた農地は三角州や氾濫原などの沖積低地で、少なくとも年に1度は上流の肥沃な腐葉土などを含む大水が押し寄せ、それによって地味が肥やされて作物を実らせていた。

 人類社会に化学肥料や農薬などが本格普及したのは19~20世紀に入ってからで、人類文化は圧倒的に長い期間、天水や洪水に身を任せながら農業を営々と営んできたわけです。