東京五輪エンブレムの盗作は「事実無根」―デザイナー佐野氏が会見

記者会見に臨む2020年東京五輪のエンブレムをデザインした佐野研二郎氏(2015年8月5日撮影)〔AFPBB News

 オリンピックのエンブレムで「盗作」騒動と報じられています。

 あるところでこれを「パクリンピック・エンブレム問題」と呼んで構造的な議論を展開したところ、なかなか好評でしたので、今回はそれをお話したいと思います。

 同じ「アートディレクター」の仕事で、飲料の景品でも盗作が出てきた云々。報道の詳細は別として、こうした体質は根が深く、昨年このコラムで何度も取り上げた「偽ベートーベン」詐欺、STAP細胞詐欺などと同様の重症の病に端を発するものと思います。

 個別のケースを取り沙汰立てる、ゴシップのようなものは別のメディアに任せるとして、ここではそういうメディアが2週間もすると忘却し尽くす構造的な問題に集中して、考えてみたいと思います。

創り手ならあるはずの「自ら撤廃する襟持」

 まずなにより第1に、本当に自分で作ったものに自覚や誇りがあるクリエイターなら、作品や納品物が他の意匠と酷似している、などと指摘された場合 プライドと威信に懸けて、恐らく次のように反論するでしょう。

 「そんな言いがかりをつけられるのは心外だ。が、結果的にでも何かに似ているとすれば、根本的に撤回して新しいものを創り直す。盗作などとは無礼なことを言う人だ、けしからん・・・」

 気の張った発言があるはずですが・・・そういうのは、ないですよね?

 これは先日の新国立競技場問題でも同じでした。と言うのは、建築設計はトップに1人の名が冠せられていても、あの規模のものとなると多数のスタッフの共同作品でしかあり得ず、「私の設計」と強く主張できるほど芯の通ったアーキテクトは世界的に数が非常に少なくなっていることと深く関わりがあるように思います。

 しかし、平面のデザインというのは、本来そういうものではないはずです。つまり、1人のクリエーターがきちっと最初から最後まで、創意と工夫と手作業とプライドをもって作り上げることができる制作物にほかなりません。

 そういう作り手の芯を感じさせるもの、まともな作り手の良心を感じるようなコメントは、少なくとも一音楽家として作曲・演奏の創作を30年ほどやってきた私の観点で、一切目にすることがありません。