「もやし」を日本中に広めたのは戦争だった

岐路に立つもやし(前篇)

2015.01.16(Fri)漆原 次郎

戦争がもやしの普及を後押し

 だが、もやしの全国的な普及に、なにより不可分だったのは戦争の影響だった。

 丸本彰造という人物が1936(昭和11)年まで陸軍主計少将を務めていた。かねてから丸本はもやしの栄養価に注目していた。かつて日露戦争でロシア兵に多くの壊血病者が出ていたのは、ビタミンCが欠乏したからという論を唱え、1918(大正7)年のシベリア出兵のとき、「将兵のビタミンC不足はもやしで補う」として兵食にもやしを加える努力をしたのである。

 さらに丸本は、市民に対してももやし普及に努める。1920(大正9)年にはもやしのパンフレットを作成。また、「東京もやし組合」という団体が東京・渋谷で行った座談会でも、自ら理事をつとめ、確認事項として「新鮮、清潔、清浄野菜」「食べて美味い」「価が安く何処でも得られる」「栄養豊富、ビタミンCの給源」「調理簡単、応用範囲、多種多様」「消化佳良で老幼患者食に適す」「燃料節約手間いらず無駄がない」「土地肥料無しに何処でも出来る」「四季を通じて何時でも出来る」「非常時野菜の王座」という「もやし十徳」をまとめ上げた。

 貧窮を極めた太平洋戦争の戦時下でも、もやしは特別扱いを受けた。農林省から「戦時蔬菜不足補充用食品」として認められ、もやし栽培者に原料豆が配給されたのである。1942(昭和17)年から1944(昭和19)年にかけて六大都市などへの緑豆の配給は、約2800トンから4000トンを超えるまでに増えた。戦時下、もやしはさながら“バブル期”を迎えていたといってよい。

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