「もやし」を日本中に広めたのは戦争だった

岐路に立つもやし(前篇)

2015.01.16(Fri)漆原 次郎

 なぜ、大鰐温泉でもやしの栽培が始まったのか。一説には、河原に湧いていた温泉に豆がこぼれて、偶然にもやしがつくられたとも言われる。室の中の土壌に種まきをして育てる。水耕栽培が主流の中で、栽培法は特徴的と言える。

大鰐温泉もやし。現在も栽培が続けられている。 (写真提供:プロジェクトおおわに事業協同組合)

 また、山形県米沢市の小野川温泉の界隈でも、江戸時代の中期から、「小野川豆もやし」が栽培されてきた。やはり、雪を溶かす温泉熱を利用してのものだ。見た目は大鰐温泉もやしと似ている。

 もやしは、雪国の冬場を乗り越える、貴重な栄養源であったに違いない。

 こうして全国のところどころでもやし栽培は行われていたものの、庶民の食材として広く普及していたわけではなかった。より広くもやしが広がったのは、明治時代も後半以降のこと。港がある大都市に、中国から輸入された豆を使ってもやしをつくる栽培業者が現れ出したのである。

 農林省(現在の農林水産省)が発行した『もやし製造業の現状と問題点』という報告書によると、東京では1926(大正15)年、日本橋に中国から原料豆を輸入する業者が誕生したという。横浜でも、あんこ用の小豆調達専門店だった「並木商店」店主の並木豊三郎が、満州で緑豆を試験栽培し始め、緑豆の輸入ルートを築いた。

 またこのころ、中国式の料理が一般に食されるようになり、中華そばや焼きそばなどの具材としてもやしが使われるようになったことも、もやしの需要を広めた。

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