(前日から続く)
イ-ゴリ・セチンがガスプロム主導でのロスネフチ吸収に賛成していたのかどうかははっきりしない。と言うのも、この話にガスプロムの経営陣は終始乗り気で、その取締役会会長は大統領府長官でセチンの上司に当たるドミトリー・メドベージェフ(後に大統領、首相)だったからだ。セチンがメドベージェフと反りが合わないことは、当時から知る人ぞ知る、である。
しかし、この完全吸収案に正面から反対したのは、それが全くの寝耳に水だったセルゲイ・ボグダンチコフで、彼はウラジーミル・プーチンに直訴状まで出してロスネフチの存続を訴えた。
火中の栗を拾わなかったガスプロム
気持ちは分かる。石油がガスに支配されるなど、生粋の誇り高きオイルマンであるボグダンチコフには耐え難い話なのだ。そして、彼にとって一大エネルギー国家企業など、どうでもよい話だったのかもしれない。
この直訴状の一件は、どうやらセチンも事前に知らされてはいなかったらしい。それが、両者の間に隙間風が吹く始まりにもなったようだ。
そして、ボグダンチコフが反対しようと、ガスプロムによるロスネフチ吸収の動きは進み、もはや消滅の運命にあった石油企業・ユーコスの石油資産もガスプロムが買収することで手筈が整いかけていた。
だが、話は予想外の展開になる。ユーコス潰しに対する西側の非難轟々の中で、同社の株主たちが、資産の継承者(買収者)が誰であろうと、それを相手取って株式の価値毀損への損害賠償訴訟を米国で起こしかねない状況になった。
すると、当時LNGを軸として対米進出を考え始めていたガスプロムは、トラブルに巻き込まれることを恐れてこの資産買収から手を引いてしまう。
このため、まだ100%国有であったロスネフチへこの買収のお鉢が回ってくる。原油生産量で4倍も大きな企業を小が呑み込まねばならなくなった。巨人・ガスプロムとは異なり、ロスネフチにはそんな買収資金はない。
そこで、恐らくセチンの知恵だったのだろうが、6年間で総量5000万トンに上る中国向けの原油輸出をまず合意し、その見返りに中国側から得た60億ドルの融資をユーコス資産の買収費用に充てることにした。原油取引での中国との結び付きの始まりである。
こうして2004年12月から2007年にかけて、ロスネフチはユーコスの原油生産および精製、小売りでの資産をすべて買収していった。その結果、2007年には原油生産量でロシア最大の石油企業となる。