いまからほんの100年ちょっと前、例えばフランスのこととして考えてみます。重病の人が発作を起こして、あわや命に別状も、というような事態が起きたとしましょう。あなたなら、いったいどうされますか? あるいは、誰を呼びにいきますか?
まあ、現代日本の普通の人なら、10人が10人「医者」とか「救急車」とか、そういう答えになると思います。つまり、病気があれば治療しなければならない。医学の力を利用しない手はない、とそういう話になるでしょう。
ところが、ちょっと前の時代でも、話はぜんぜん違ったようなのです。
あわや、危ない、というときには、しばしば神父さんが呼ばれました。「終油の秘蹟」をしなければならないからです。
反転する常識・非常識
いまなら、私たちは「きちんと治療すれば助かる命かもしれない。いったい何を悠長なことを言っているんだ」と怒るかもしれません。
でも、その当時はそういうことが分からなかった・・・というより、病気をしたり、戦場で大きな怪我をしたりすれば、かなりの確率でその場で一巻の終わりとなってしまい、むしろ「終油の秘蹟」の方が、よほど重要かつ切実、というか常識的だったわけです。
しばしば、いまだ意識がある状態で、神父さんが呼ばれて来、これから天国に召されるにあたって必要なキリスト教的な手順を踏む、という常識的な判断がなされたわけです。
いや、なかには「終油」を受けたあとに蘇生して、こちら側に帰ってきた人もあったでしょう。そういうときには、なるほど、神様は、まだこちら側に来るな、まだお前は地上でやるべき仕事が残っている、と地上に魂をお戻しになった、などと解釈したのかもしれません。
少し前の時代まで「誰でも知ってる常識」とされていたものが、ほんのちょっとの変化で反転してしまい、かつての常識が全く通用しなくなってバカげた虚妄の扱いを受けることは、人類史を振り返っても決して珍しくはありません。