本来のトヨタ生産方式を説くために始めた本コラム「本流トヨタ方式」は、今「自働化」の話を進めていて、今回はその8回目になります。

 先回まで数回にわたって、トヨタ生産方式の肝となる機械工場の「人の仕事と機械の仕事の分離」の改善について説明してきました。1950年頃のトヨタの工場が、「脱・着工程」から「着・着工程」へと移行することで機械に関与する人の時間を短縮させ、労働生産性を約10倍あまりも上げてきたという話でした。

2012年の今日、日本の機械工場の多くが、当時のトヨタの抱えていた問題と同種の問題を抱え、業績を悪化させています。中にはその問題にすら気がついていない会社もあります。

 そこで今回は、六十余年前に行ったトヨタの改善の「経営戦略としての意味」を、現在の日本の機械工場が抱えている問題と重ね合わせてお話しします。

目いっぱい作りだめしていた「デカンショ生産」

1950年から大野耐一氏が始めたトヨタの機械工場の改善を工作機械の稼働率という断面から見ますと、大野氏の経営者としての改革がよく見えてきます。

 改革を始める前のトヨタの機械工場は、徒弟制度の師弟関係に基づいた強固な職人集団、比喩的に言えば「村」社会がありました。広い機械工場内は、ボール盤「村」、旋盤「村」等、同種の機械や職種が集合した「村」が割拠し、各「村」にはその職種の名工がいわば村長の役目をし、職場規律、人材育成から各作業の所要作業時間管理や月度の作業順序までも自分たちで決める「自治体」でもありました。

 会社から月度の生産計画が出て、仮に今月はA500個、B250個、C100個の生産計画であったとします。当時は月25日稼働でしたので、どの「村」も1日当たりA20個、B10個、C4個作っていけば間に合います。しかし、「村」には様々な事情があり、各「村」は自分たちにとって一番「効率の良い」案で実施しようとします。

 しかしその実態は、各「村」は生産計画の未達は職人の恥と考え、機械故障などの異常があっても生産計画は達成できるように、月初から目一杯先行生産します。月末になるとのんびりと生産するようになり「後の半年は寝て暮らす・・・」というデカンショ節に例えて「デカンショ生産」と言われていました。

 設備(生産)能力に余力がないと思っている「村」では、万一に備え、機械稼働率を最大限にする対応を取り、段取り替えを最小にするために、月初から「A → B → C」という順番に作ろうとします。