北米報知  2011年11月23日号 

当時の北米報知の記事

 「白井哲夫氏日本に向ふ
永らくスター豆腐製造所坂本登氏宅に滞留だった返還船員白井哲夫氏は明日午後一時四十五分当港発の軍用船に便乗日本に向ふ」 

 1950年8月16日水曜日の北米報知紙が伝えた一人の船員の帰国。この船員こそ、私の祖父、白井哲雄である。

 まだ私が小さい頃から、「おじいちゃんにはお世話になった人がいるのよ」と母から教えられ、シアトルからその家族が日本を訪れると、祖父が自分の家族以上に歓迎する場面を何度も見てきた。

 その特別な温かい関係はどこから来たものか。祖父本人は「男は黙って」という武士道精神の持ち主なのか、当時の様子を自ら語る機会はほとんどなく、代わりに祖母と叔父が過去に聴いた話からまとめた「律儀な青年と命の恩人」というタイトルの原稿用紙3枚が当時の様子を記録している。

 今回、祖父の思い出詰まるシアトルで、(株)テンプスタッフが社会貢献として提供するスカラシッププログラムによる語学留学の機会を得た。

 そして、今は脳梗塞により自由に言葉を発することができない祖父の意思が後押しするように、北米報知紙でのインターンに至り、保管された過去のアーカイブの中から61年前の祖父の足跡を辿った。

戦後間もない日系社会のもてなし

 20歳の祖父が返還船の乗組員としてシアトルの地に降りたったのは1950年5月31日。敗戦国日本には第二次世界大戦からの引揚者の移動のために十分な船がなく、米国の船を借りて満州やその他の引揚者を祖国に送り届けていた。 

 当時の北米報知は何度かに渡り、返還船が日本からブレマートン軍港に到着したことを伝えている。

 「海軍当局の厚意により、シアトル回航が許されたので、返還船六隻の日本人船員二百五十六名を乗せ来る七日シアトルへ入港、シアトル市内の観光が許されることとなった」とも書かれ、この頃の紙面には歓迎会に向けての寄付や奉仕、市内観光の車提供を求める記事が重なる。第三次返還船員256名の一員であった祖父も日系人会を中心としたもてなしの恩恵に授かっている。

シアトル係留中、14歳で亡くした母の命日を迎える祖父は、船室の写真に供える花を買い求めるため、駅で日系人らしい赤帽さんに日本人街を聞いた。その赤帽さんは「ビールでも飲みなさい」と25セントを下さったという。