團藤重光教授の懸念、法制度整備の必要性
こうした「劇場型」の演出は、国会議員の選挙、つまり「立法」の世界だけでなく「司法」においても、十分に注意しなければならない――と強調されたのが、2012年に亡くなられた刑法の團藤重光先生でした。
私はオウム法廷に関連して知り合う機会を得、2000年代からの7年ほど、そば近くご一緒して、共著で「反骨のコツ」(2007)、ご指導いただきながら単著で出した「ニッポンの岐路裁判員制度~脳から考える『感情と刑事裁判』」(2009)など、司法を脳と情動から考える一連の仕事をしました。
長年の経験を持つ職業裁判官でも、しばしば誤審の危険性を免れないのに、ましていわんや、そうしたトレーニングを一切受けていない一般人が裁判員として、残酷な刑事事件の証拠などを目の前にして、しっかり心証を形成し、正しい判断を下せるのか?
刑事事件そのものは、大半が残虐で目をそむけたくなる証拠だらけです。しかし、問題は、それらと今そこで裁かれようとしている被告人が有罪か無罪かを判断することとは、やや別の話であることです。
全く無実の人が拘束され、裁判にかけられながら、残酷な現場の証拠類を見せられれば、被告人と無縁な犯罪でも「こんな酷いことをするとは、厳罰に処さねばならない!」などと、情動によって冷静な判断が下せず、バイアスがかかってしまう危険性が常につきまといます。
普通の人は残虐な証拠を見せられると、正気の判断力を保持するのが困難になるのは当たり前のことだと思います。
生前の團藤先生は2006、2007年の時点で「法廷の劇場化」を大いに案じておられました。
2009年5月の裁判員制度開始の折には、「みんなゼロからやり直せばいいんだよ。あの時もそうだったから・・・」と、戦後GHQと論戦しつつ、先生ご自身が主導して新憲法下での刑事訴訟法を作り直した時のお話をしてくださいました。
さて2026年、全国民が選挙の投票において「正気の判断力」を保つのが難しくなっている気がしてなりません。
大変な状況になってしまったことを、社会が自覚する必要があります。今回の選挙は、そもそも国会の解散そのものに違憲性も一部で指摘されています。
結果的に1933年ドイツと重なる「新メディア暴走」に近づいてしまったのではないか。
新しいデジタル領域に関して十分な規律が追いつかないままにSNSを駆使した選挙が行われ、民主主義破壊の危機が現実的に指摘されるところまで進んでしまいました。
事態を直視し、適切な法制度を整備すること。度を過ぎたアジテーションを規制し、まともな民主主義が機能するよう、心ある公衆に呼びかける必要を情報専門の観点から痛感しています。