ドイツのような反省がなかった日本

 芸能人につくファンのように政策とはほぼ無関係、内容の是非ではなく、タレントへの「推し」のように盲目的な支持者が増え、反対する者の意見を封じ込める衆愚制へと発展してしまった。

 いつしかそれが暴走し、あのような戦争、あのような残虐行為を招いてしまった。

 ドイツと違って、そうした過去の歴史に対する真摯な反省と再発防止への制度的な歯止めがなかった日本で、今このような深刻な状況が起きかねない現実は、非常に憂うべきものだと考えます。

 日本で「オウム真理教事件」以来、延々と繰り返されてきたこうした経緯については、私が角川学芸出版から出した「サウンド・コントロール」(2011)などに詳しく記しています。ご興味の方にはご参照いただければと思います。

 実は、かく言う自分自身で聴衆の心を掴む似たような経験があります。もちろん意図的ではありません。そのエピソードをご紹介しましょう。

 私は2001年の1年間、結果的にコロナによる遠隔授業などを20年ほど先取りする形で、慶應義塾大学の非常勤講師として、授業をすべて遠隔授業で行ったことがあります。

 私の音楽に関するその講義は、ビデオコンテンツとして毎週収録して授業に用いました。

 たびたびこのコラムでも触れてきたのでご存知の方は多いと思いますが、私はその直前までテレビ朝日系列の音楽番組「題名のない音楽会」の音楽監督を務めていましたので、そうしたビデオを作成することは大した負担にはなりませんでした。

 当時、東京大学の大学院生としてTA(ティーチング・アシスタント)をしてくれていた福田貴成君(現・東京都立大学教授)が、収録したビデオを持って慶應大学で再生、学生の質疑応答に答えてくれる形で授業を行いました。

 さて、定期試験のおり、私が初めて教室に姿を現すと、それだけで教室が大変な騒ぎになったのです。

「あー、いる~」「実在したんだ~」といったリアクションは、社会実験としても実に興味深いものがありました。