「政治とカネ」問題の試金石とすべき9万円
政治部は永田町の論理に染まり、「よくある話」として看過している可能性も否定できないし、社会部記者はリソース不足で手が回らない。結果として、ニュースは「点」として消費されるだけで、「線」や「面」としての構造的問題を明らかにするような報道につながっていかないのではないかというのが筆者の懸念である。懸念であってほしいくらいである。
さらに言えば、データのデジタル化の遅れも取材の障壁となっている。
収支報告書はPDFや紙で公開されることが多く、それらを突き合わせて不自然なカネの流れを解明するには膨大な労力を要する。かつては人海戦術で乗り越えていたこの壁も、人員削減が進む現代のメディアにとっては極めて高いハードルとなっている。
デジタル庁の発足やDXの推進が叫ばれて久しいが、政治資金の透明化プロセスにおけるデジタル化は遅々として進んでいない。
民間でのアプローチが認められるが、そもそも論でいえば、総務省が電子的に再分析しやすいかたちにして公開するべきだ。そして議員や政党自らそのような提案を行うべきだ。
結果として、権力監視の空白地帯が広がり、政治家は「バレても大ごとにならない」と高を括り、国民は断片的な情報のみを受け取り、「政治(とカネ)はどうせ変わらない」という政治不信を強めていく悪循環に陥っているように思われる。
この閉塞状況を打破するためには、やはり政治とカネの問題解決の徹底が重要ではないか。SNSでの発信、パブリックコメントへの参加、そして何より投票行動を通じて、政治家に対し「その金使いは許さない」という意思を可視化し続けることも同様だ。
同時に、縮小する既存メディアに代わる、あるいはそれを補完する新たな媒体や報道の担い手をどう育て支えていくかという課題も考えなければならないだろう。
政治資金規正法の理念である「国民による監視」の実質化を考えるとき、キャバクラ代9万円という政治とカネの世界でいうところの「小さな」問題は、案外重要な試金石なのだ。