「ショボい」と見るか、「氷山の一角」と見るか

 次に、この問題がなぜこれほど「小粒」な扱いを受けているのか、という問題だ。筆者が懸念しているのが、マスメディア、特に新聞における「後追い報道」機能の著しい低下である。

 かつて日本のメディア、とりわけ新聞社は、他社がスクープした特ダネ(「抜き」)に対し、屈辱を感じつつも徹底的な追加取材(「後追い」)を行うことで、事件の全容解明を競い合ってきた。リクルート事件はその好例といえよう。

 事件発覚の発端は川崎市助役への未公開株譲渡という地方の小さな疑惑であったが、朝日新聞横浜支局のスクープを契機に、各社が熾烈な後追い合戦を展開した結果、政界、官界、財界を巻き込む戦後最大級の疑獄事件へと発展した。この競争的な取材合戦が、個別の小さな不正を構造的な汚職事件へと詳らかにすることに貢献した。

 要するに、権力の腐敗を暴くエンジンの役割を果たしていたのである。一つの報道が呼び水となり、他社が異なる角度から掘り下げることで、事件の全体像がパズルのように埋まっていく。このプロセスこそが、日本のジャーナリズムの強みであった。

 しかし、本欄でも何度も取り上げてきたように、メディア環境は激変した。経営体力と人的リソースを削がれた新聞社に、もはや地道な「後追い」を行う余力は残されていないのではないか。記者の数は減り、支局は統廃合され、一人の記者がカバーすべき領域は肥大化している。

 奥下氏の件も、金額だけを見れば9万円程度と「ショボい」事案に見えるかもしれない。しかし、氷山の一角である可能性を疑い、同様の手口が党内や他党に蔓延していないか、あるいは背後に癒着構造がないかを掘り下げるのが本来のジャーナリズムの役割のはずだ。

 だが現状では、ストレートニュースとして報じるのが精一杯で、そこから調査報道へと展開する力が失われているように見える。政治とカネ問題が、制度も、公開されているデータも複雑で、扱うのに手間がかかるということもある。だが、それを丹念に報じることに報道の価値があるのではないか。