豊受宮の現正殿(奥)と旧正殿敷地(手前) 撮影/倉本 一宏
(歴史学者・倉本 一宏)
日本の正史である六国史に載せられた個人の伝記「薨卒伝(こうそつでん)」。前回の連載「平安貴族列伝」では、そこから興味深い人物を取り上げ、平安京に生きた面白い人々の実像に迫りました。この連載「摂関期官人列伝」では、多くの古記録のなかから、中下級官人や「下人」に焦点を当て、知られざる生涯を紹介します。
*前回の連載「平安貴族列伝」(『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』所載分)に書き下ろし2篇を加えた書籍『続 平安貴族列伝』が12月17日に発売されます。
二十年ごとに行われる「遷宮」
これは誰の名前を挙げればいいのかわからないのだが(「責任者出てこい」といった感じ)、『村上天皇御記(むらかみてんのうぎょき)』の応和(おうわ)二年(九六二)の記事に、伊勢神宮でとんでもないことが発覚したことが記録されている。
周知のとおり、伊勢神宮は持統(じとう)天皇の時代に皇祖神と位置付けられて以来、二十年に一度、遷宮というのが行われ、すべての建物や橋、神具や調度から道路の玉石にいたるまで、新しく替えられる。したがって、伊勢神宮には国宝建造物もなく、世界遺産でもない。
二十年というのは、掘立柱建物の耐用年数であると同時に(雨水で柱が腐食される)、昔の人間の一世代でもあり、前の遷宮で棟梁だった人が下職の職人に技術を伝習し、その職人が次の遷宮では棟梁になるという、世代交代のうえからも好都合だったのであろう。
なお、前回の遷宮の際に、豊受宮(外宮)に「式年遷宮記念せんぐう館」が作られて、豊受宮正殿の原寸大の復元(近くで見ると、すごく大きくて、各所に宝石が施されて豪華である)や、各種調度、儀式次第などが展示されているので、ぜひ訪れていただきたい。
私は三重県生まれで、最初の遷宮を経験したのは中学二年生の時だった。学園祭の仮装行列で遷宮のお木曳きを演じた(私の通った中学校は浄土真宗高田派の本山[こちらは国宝である]の中にあり、山車に使う竹を本山の庭園[県の史跡名勝]から伐ってきて、ひどく怒られたのを覚えている)。二十年となると、次の遷宮は最初に勤めた大学の助教授時代で、学生を連れて見学に行った。その次となると、最後の勤務先である日文研に勤めていて、研究員たちと見学に行った。
ということで、三重県人にとっては、遷宮が人生の重要な節目の一つなのである。はたして次の遷宮(二〇三三年)も見られるのか、現在の人生の目標となっている。
さて、伊勢神宮に行かれた方は、すべての建物の横に同じ面積の空閑地があることにお気付きのことと思う。この空閑地は、遷宮以前に建物が有った場所で、次の遷宮の際には、そこに新たな建物が建てられるのである。
本題に戻るが、『村上天皇御記』の応和二年七月二十七日条(『延喜天暦御記抄(えんぎてんりゃくぎょきしょう)』『神宮雑例集(じんぐうぞうれいしゅう』による)には、次のような驚くべき事実が記録されている。
右大将藤原朝臣(師尹[もろまさ])が(藤原)文範(ふみのり)朝臣を介して、祭主(大中臣[おおなかとみの])元房(もとふさ)の申した、伊勢太神宮の新宮の正殿の心柱を、旧例に相違して立て奉ったという申文〈文書を副えてあった。〉、及び造伊勢太神宮使大中臣善道(よしみち)の申した、新宮の心柱を傍らに寄せて立て奉ったという申文を奏上させた。命じて云ったことには、「この申状のとおりであれば、『元の柱穴によって立て奉り、また、今、いらっしゃるところの宮の心柱を傍らに立て奉った』ということだ。本来ならば元房が申した、旧例に違っているとのことを覆問しなければならない」と。
何と、皇太神宮(内宮)の正殿の心柱(伊勢神宮正殿の中央床下にある柱。「いみばしら」とも)を、違う場所(元の柱穴)に立ててしまい、しかも現在の心柱を傍らに立てたとのことである。この事実を、伊勢神宮の現地の責任者である祭主の大中臣元房と、朝廷から派遣された造伊勢太神宮使の大中臣善道が、村上天皇に奏上して、事態が発覚したのである。
朝廷では、大変なことと大騒ぎになったと思われるが、次にこの事件に関する史料が見えるのは、『日本紀略(にほんきりゃく)』の翌八月十五日条で、
「祭主神祇大副大中臣元房が申した、伊勢太神宮の新宮の心柱を立て誤まった禰宜と内人たちが進上した申文や過状を奏上した」と云うことだ。太神宮司に命じて、確かに勘申させた。
というものである。現地で事にあたった禰宜や内人(禰宜の次の位の神職)たちが、申文や過状を進上し、それを村上天皇に奏上したというものである。何とものんびりした対応であるが、これが平安時代のスタンダードだったのである。なお、過状というのは一種の始末書で、これを出してしばらく謹慎していれば、たいていの罪は許されるというのも、いかにも平安時代らしい。
翌八月十六日の『村上天皇御記』の記事(『西宮記(さいきゅうき)』『神宮雑例集』による)には、朝廷の対応が次のように記録されている。
右大将藤原朝臣が申させたことには、「(藤原)元方(もとかた)と太神宮司(大中臣)茂生(しげお)とが、同じく心柱を誤ったとのことを申しています。それならばつまり、重ねて問うとはいっても、やはりこのことを申さなければなりません。神祇官人を差し遣わして、誠の事実を問い定めて、立てるべきでしょう」と。
事の詳細を調査するため、中央の神祇官の官人を現地に遣わして、事実を問い定めてから、心柱を立てることになったようである。現在なら京都から伊勢神宮まで、近鉄特急とバスで三時間弱で行けるが(案外かかるな。津からなら一時間もかからないので、気軽に考えていた)、当時は何日もかけて下向したのであるから(しかも鈴鹿峠を越えなければならない)、使者も大変だったはずである。
この使者の実検と尋問と報告を承けてのことであろう、『村上天皇御記』の八月二十六日条(『神宮雑例集』所引「匡房勘文(まさふさかんもん)」による)には、事件の詳細が記録されている。
文範が、神祇権大祐大中臣理明(まさあき)の申した、太神宮の正殿の心柱を立て奉った処、および古い柱穴を実検し奉った勘文を奏上した〈「一、新宮の正殿に立て奉った処は、中心の東西から北に寄ること二尺二、三寸、中心の南北から東に寄ること二尺一、二寸ほどでした。一、まさにいらっしゃる正殿の心柱を立て奉った処は、東西の中心から北方に去ること七、八寸ほど、南北の中心から西方に寄ること一尺七、八寸ほどでした」と。太神宮司の解状を副えてあった。〉。すぐに左大臣の許に給い、命じさせて云ったことには、「元房たちが、新宮の正殿の心柱に誤りが有ったとのことを申してきた。そこで使を遣わして実検した。申したところは、このとおりである。但し現在、いらっしゃるところの正殿の心柱は、また正しくはない。もしかしたらそのことを謝し申して、改めて立ててはならないのか、それとも抜き替えて、改めて立てるべきか否か。宜しく定め申すように」と。
これで心柱を誤って立てた地点が詳しく判明したのであるが、だからといって、あれだけの大建築を、今さら柱を抜き替えて、改めて建て直すわけにもいかない。ということで、朝廷では当面の弥縫策を考え始めたのである。
翌日の八月二十七日、『村上天皇御記』(『神宮雑例集』所引「匡房勘文」による)には、その対策が記録されている。
文範が左大臣(藤原実頼[さねより])の報を伝えさせて云ったことには、「あの心柱を改めて立てる事は、甚だ畏れなければなりません。もしかしたら謝し申され、加えて誤って立てた禰宜や内人どもに祓を科しては如何でしょうか」と。命じたことには、「申したことによって、行なわせよ」と。
朝廷の首班であった藤原実頼は、心柱を改めて立てることをあきらめて、伊勢神宮に謝し申し(詫びを入れる)、誤って立てた禰宜や内人どもに祓を科すことと決したようである。その奏上を承けた村上天皇も、そのようにせよと、最終決定を下している。
なお、祓というのは、「大祓の詞を唱えて、罪はいうまでもなく、穢や病気・災厄などを広くはらい除く風習」とのことである(『国史大辞典』による。青木紀元氏執筆)。これで罪が祓えるのであるから、気楽なものである。
実際には、八月二十八日に祓を科されたようで、『村上天皇御記』(『西宮記』による)には、
左大臣が、神祇官の勘申した太神宮の新宮の御心柱を、通例に違って立てた判官・禰宜・内人どもの罪の文を奏上させた〈状に云ったことには、「先例が無いとはいっても、格文によって、上祓を科すことにします」ということだ。〉。命じたことには、「定め申したことによって、祓を科させよ」と。
と、『日本紀略』には、
神祇官が、太神宮の新宮の心柱を例に違えて立てた判官・禰宜・内人たちの罪の文を勘申した。定め申したことによって、祓えさせた。
と記録されている。どうやらこれで事件は落着したようで(八月二十二日に内裏の穢によって遷宮は延引されているが)、九月七日に遷宮神宝使を発遣し、めでたく遷宮が行われている(ただし日時は不明)。
ともあれ、このような努力の賜物として、今日に至るまで遷宮が続いているのも、ありがたい話である。これからもこのようなことが永く続く日本であることを祈るばかりである。

