石碑に刻まれた消滅までの400年の歴史
コパン遺跡は、マヤ地域の最南端にあり、すぐ東隣に川が流れる標高600mのコパン谷にある。近くのグアテマラ高地から翡翠や黒曜石が産出したため、その交易によって5~9世紀に繫栄したという。神殿ピラミッドや王宮、貴族の邸宅を3万点以上ものモザイク石彫が飾り、王のリアルな顔をもつ独特の丸彫り石碑が林立することから、コパンは「芸術の都」と称されるのだ。
緑がかった加工しやすい凝灰岩を用いてはいるが、複雑な図像のマヤ文字を1文字ずつ浮彫りにして、石碑をすき間なく埋め尽くしている。「神聖文字の階段」では、72の各段に計2200もの文字が刻まれた。これほど大量な記録を残した都市は、コパンの他には見当たらない。それはマヤ文字や王朝史を紐解く、手がかりになってきた。
神聖文字の階段があるピラミッドからは、西暦426年に王朝を起こした初代王ヤシュ・クック・モの陶製の肖像が出土している。ヤシュ・クック・モとは、「最初の・緑のケツァル(羽根が珍重された幻の鳥)・金剛インコ(太陽の象徴)」という意味である。
両手をパっと広げたような頭飾りや肩パッドなど、突飛に思える装束はそのままの姿なのだろう。中でも丸いゴーグルをかけているのが目を引く。これは、巨大な“太陽のピラミッド”で知られるメキシコの古代都市「テオティワカン」に特徴的な戦争に関わるモチーフらしい。けれども初代王がテオティワカン出身だったとか、テオティワカンによってコパンの地が征服されたという碑文は残されていない。
いずれにせよ5世紀にコパン王朝が興り、7世紀には13代王の下で軍事・商業が大きく発展したものの、738年に隣国キリグアとの戦いに敗れてワシャクラフン王は斬首、少しずつ衰退への道を歩み、16代王が死去した後、822年2月10日の日付を最後にコパンは消滅する。大河ドラマの如く、石碑からその歴史が読みとれるのだ。

