知識は豊富でも感情はないAI

 AIの普及によって、学校での「知識伝達」はもはや教育の中心ではなくなります。AIがあらゆる情報を即座に提供できるなら、教師の役割は答えを教えることから問いを一緒に見つけることへと変わるはずです。

 例えば、美術の授業でAIを使って作品を生成させる。生徒たちはすぐに美しい画像を手にします。けれど、そこから本当の学びが始まります。

「なぜこの構図を選んだのか」「何を表現したかったのか」

 AIが作る完璧な絵と、人間が描いた拙い線の違いを比較しながら、自分の感情の形を探る教育が大切になるのです。

 文学や音楽でも同じです。AIが模倣する詩よりも、拙くても自分の体験に基づいた詩をどう書くか。AIが作る旋律よりも、自分の耳と心で聴き取った音をどう表現するか。

 芸術教育は、技能教育から自己理解の教育へと進化していく必要があります。AI以後の教育では、感性の訓練が最も重要になります。

 それは才能の問題ではなく、体験の深さの問題です。子供たちはもっと本を読むべきです。しかも、AIがまだ学習していない新しい本を。

 彼らは舞台を観に行き、生の俳優の息づかいを感じるべきです。

 外国に出て異なる文化に触れ、食べ物の味、街の匂い、人々の表情を体で知るべきです。そうした経験は、AIには絶対に再現できません。

 AIは「知識」を持っていますが、「感情の記憶」を持ちません。芸術の出発点は、知識ではなく感情です。

 だからこそ、AI以後の時代に人間が学ぶべきは、世界を感じ、世界に驚き続ける力なのです。

 どの芸術も、完成形がまず頭の中に浮かびます。音楽ならワンフレーズ目から最後のフレーズまで。映像制作なら最初のシーンから最後のシーンまで。絵なら細かいディテールまでもが頭の中に浮かびます。

 小説でもプロローグからエピローグまで、すべての描写が見えるのです。建築物でもコンピュータプログラミングでも、芸術と呼ばれるものはすべて同じ。

 それは、天から降りてくるような感覚です。インスピレーションが湧くというより、何か大きなものに突き動かされているような感覚に近いのです。

 その瞬間、人間は自分の力を超えた創造に触れます。

アンリ・ルソーの「フットボールをする人たち」