「眠るジプシー女」(アンリ・ルソー)。筆者撮影、以下同じ
写真機の発明がもたらした新しい絵画
19世紀の終盤、1台の機械がヨーロッパの芸術界を根底から揺るがしました。写真機の発明です。
それまで多くの画家たちが、いかに現実を忠実に再現するかを使命としていました。
ミレーやコロー、クールベといった写実主義の画家たちは、自然の光や人々の営みを正確に描こうと努力したのです。
しかし、写真が登場した瞬間、その努力は一瞬にして意味を失います。
カメラのレンズは、どんな天才画家よりも正確に光を記録し、構図を保存したのです。
「もう、現実を描く必要はないのではないか」
多くの画家たちは動揺しました。芸術は、もはや再現の技術ではなく、表現の探求へと進まざるを得なくなったのです。
絵画は写真によって、一つの根本的な役割を奪われました。しかし、それは滅びではなく、新しい自由の始まりでもあったのです。
写実から解放された画家たちは、現実を写す代わりに「心の風景を描く」ようになります。
モネは光の揺らぎを描き、セザンヌは構造を探求し、マティスは色そのものを解放しました。
そして、技術的な上手さではなく、自分が何を感じるかが芸術の中心へと浮上していきます。
そうした中、芸術界の外から突如現れたのが、アンリ・ルソーという一人の素人画家でした。
彼は職業画家ではなく、フランスの税関職員。夜や休日に一人で筆をとり、独学で絵を描いていたのです。
ルソーの作品は、一見すると拙いものでした。遠近法は崩れ、人物は硬直し、背景の樹木はまるで子供の工作のよう。
しかし、その稚拙にも見える中に、誰にも真似できない純粋な世界がありました。
彼の代表作「夢」では、ソファに横たわる裸婦の周囲を、異国の植物や獣たちが囲みます。そこには理屈では説明できない不思議な構図がありました。
「眠るジプシー女」では、砂漠に横たわる女性のそばでライオンが静かに見守ります。現実にはあり得ない光景なのに、なぜかリアルなのです。