女性の観覧が原則不可だった勧進相撲
例えば、修験道の聖地大峯山や比叡山は、山全体を女人禁制とした。その結界(女人結界)の部分には「女人堂」を設け、女性信者らはそこで祈った。女人堂では護符などの授与や護摩、法要などを有料で受けることができた。
富士山も、江戸時代まで吉田口2合目付近に「女人結界」(女人天上)などの遥拝点を設け、女性はその内側には山に入れなかった。高野山や御嶽山も、女性は山頂までは立ち入れず、遠くから遥拝した。大峯山の一部では、今でも女人禁制が敷かれている。
しかし、多くの聖域における女人結界、女人禁制は明治に入って撤廃されることになった。1872(明治5)年3月、女人結界の解禁の太政官布告が出されたのである。ポイントは宗教側からの自主的な解禁ではなく、政府による法令として解禁を命じられた、ということである。
女人禁制が撤廃された背景には、わが国で鎖国が終わり、お雇い外国人らが続々と入国してきたことが大きい。明治政府は、各地で続けられていた女人禁制を、国際社会から「女性蔑視」「野蛮な国」などと非難されることを恐れたのである。
この布告を受けて、原則的には女人禁制が廃止された。大相撲に関しても同年、「女人解禁」になったという。ただし、実はこの時の解禁は「女性が土俵に上がれるようになった」のではなかった。「女性の観覧が可能になった」ということである。
江戸時代の勧進相撲は、寺院や神社の境内で行われていた。勧進相撲は寺社の修繕や伽藍の普請が目的だからだ。両国国技館の前身も、両国にある浄土宗回向院の相撲小屋である。
両国の回向院。江戸時代から明治期にかけて勧進相撲が実施された。
江戸時代の勧進相撲の様子を描いた浮世絵(歌川国芳、東京都立中央図書館)
江戸時代の勧進相撲では、女性の観覧は原則不可だった。これは、宗教的理由での「女人禁制」ではなかったと考えられている。当時の勧進相撲は勝敗を巡ってしばしば乱闘が起きており、女性の立ち入りは危険であるとみなされた上での措置だったようだ。勧進相撲はいわば、プロレスのような大衆娯楽であった。
明治の解禁は、あくまでも「観覧」であり、「土俵に女性が上がること」については議論の俎上に乗らなかった。私見になるが、当時はどちらでもよかったのであろう。というのも、明治初期には勧進相撲への関心は薄れる一方であったからだ。西洋化を急ぐ時世にあって、裸の男同士がぶつかり合う前時代的な興行は、敬遠されたのである。
むしろ、男性力士と同じようにまわしひとつで取り組む「女相撲」や、女性力士と男性の盲人力士を組み合わせた「合併相撲(男女相撲)」などの、エロチックな見世物興行が広がり始めた。当局は、相撲興行を風紀取締の対象にし、男女相撲を禁止にした。
さらに1875(明治8)年には内務省通達により、神社仏閣の境内における見世物興行が原則禁止になった。大衆向けの相撲は存続の危機に瀕した。