「放送倫理違反」でもダメージは少ないと“学習”

 かつては、BPOの放送倫理違反を受けた放送局は重大に受け止めていたように感じます。しかし、よほど深刻な事案でない限り、社会的批判を強く受けることなく、スポンサーも離反することもなく、実利的なダメージがないことを学習していったように思います。

 また、日本特有の「水に流す」文化と、国民の忘れやすさにも助けられたかもしれません。問題の風化を待つまでもなく、すぐに蒸発する、一過性の残念な出来事だったと片づけているように見えます。

 そうして、自主的な改善努力で放送業界は常に浄化されるという内部統制を美化しつつ、次第に「放送倫理違反」の烙印を押されることに「慣れ」が生まれていったと考えます。

「慣れ」は、心理的な防衛機能の一つで、不安に対して適度に統制することができる面を持っています。一方で、叱責などへの「慣れ」は、痛みそのものを感じなくなり、感受性の麻痺が起こります。

 北朝鮮のミサイル発射報道を例にしても、当初は「日本列島のどこかに落下するのではないか」という恐怖がありました。しかし、常態化するにつれ「ああ、またか」とつぶやく程度で、危機感が鈍麻していることを私自身も自覚します。

 それと同じように、放送倫理違反に対して、当事者は痛痒を感じても、放送業界全体としては「ああ、またか」という反応で、軽い扱いになっているのではないでしょうか。BPOが警鐘を鳴らしても響かず、対岸の火事は「ぼや」で済んだらしいくらいの関心事なのです。

「活かされなかった反省」

 今回のBPOの意見書に記された言葉ですが、この構造的麻痺を象徴しています。