運命の出会い

 ハーンが日本行きを決断したのは、1844年(明治17)12月に開幕したニューオーリンズ万国産業綿花百年記念博覧会を取材し、日本の展示物に強く惹かれ、日本政府代表の文部事務官・服部一三と親交を結んだこと。

 ハーパー社の美術主任ウィリアム・パトンから、イギリスの言語学者で東京帝国大学教授のバジル・ホール・チェンバレンが訳した『英訳古事記』を借りて読んだことが、大きな要因となったと考えられている。

 前に述べたエリザベス・ビスランドが、日本行きを勧めたともいわれる。

 いずれにせよハーンは、ハーパー社の雑誌特派員として、日本へ向かうために、1890年(明治23)3月8日、ニューヨークを発った。

 同年4月4日に横浜に到着したハーンは、6月にハーパー社への不満から、契約を解消する。

 その後、前述のバジル・ホール・チェンバレンや服部一三などの支援を受け、同年7月19日、島根県知事・籠手田安定(こてだやすさだ)と、島根県尋常中学校および、師範学校の英語教師となる契約を、結ぶことに成功した。

 ハーンは赴任地の松江で、「ヘルン」と呼ばれることになるが、それはこの時の契約書(仮条約書)に、「ラフカヂオ・ヘルン」と記載されたためである。

 同年9月から、ハーンは赴任地で教鞭を執りはじめた。

 松江の冬は、ハーンにはあまりにも寒かった。翌明治24年(1891)の1月15日頃、ハーンは気管支炎を発症し、寝込んでしまう。

 病は快復したが、ハーンは住み込みで働く女中の必要性を感じたようである。

 やがて、小泉セツという松江の元士族の娘が、住み込みの女中として雇われることになる。