左目の視力を失う
その後、ハーンは、彼を聖職者にしたい大叔母の強い希望により、1863年(文久3)9月、13歳の時、イギリスのダラム市郊外のアショーにある、全寮制のカトリック系の神学校セント・カスバート・カレッジに入学した。
この神学校で、ハーンは大きな不運に見舞われる。
1866年(慶応2)、16歳の年、ハーンが学校で友人と、「ジャイアンツ・ストライド」という遊戯をしていた際に、当時、最も親しかった友人の一人が不意に放った縄が左目に当たり、失明してしまったのだ。
これは、ハーンの大きなコンプレックスとなる。
また、残された右目も強度の近眼であり、以後、ハーンは視力で苦しんだ。
さらに、庇護者である大叔母サラ・ブレナンが破産したため、1867年(慶応3)10月、ハーンは神学校中退を余儀なくされた。
その後、親族は誰もハーンを援助せず、彼は無一文となった(高瀬彰典『小泉八雲の世界―ハーン文学と日本女性―』)。
ハーンはしばらくロンドンを当てもなく彷徨った後に、1869年(明治2)、19歳の時、イギリスのリバプールから移民船に乗って、単身でアメリカに渡った。