1945年の被爆当時、18歳だった江種(えぐさ)祐司は、「被爆の現状は漫画以上だった」と映画の中で証言している。

自らの被爆体験を語る江種祐司(C)BS12 トゥエルビ

 被爆時に働いていた軍用倉庫の窓が全部割れ、雨あられとなって破片が降ってきた時、「これで死ぬんだ」と思ったが、学友の「早く外に出ろ」という声に急き立てるように駆け出した。先を走る友人の後頭部からおびただしい血が流れていることを告げると、「お前もだ」と返された。

「倉庫から駆け出ると、巨大なキノコ雲に度肝を抜かれました。周りは一面、色を失ったように真っ黒になっていました」と80年前を振り返った。

25カ国で翻訳

 中沢啓治が『少年ジャンプ』(集英社)の編集長に声を掛けられ、33歳でゲンを描き始める。中沢には“カメラアイ”と呼ばれる、映像記憶能力があり、それが幼い頃に見た記憶をたどって描くときに役立った。

中沢が見た8月6日を語り継ぐボランティアの女性(C)BS12 トゥエルビ

 家族が家の下敷きになって焼け死ぬ場面を描くときは、「熱かっただろうな」、「苦しかっただろうな」とやり切れない思いでペンを進めた。連載する雑誌を何度か変えながらも、全10巻が完成した。

 広島では、ゲンの物語を30年以上も語り継ぐ講談師や、ゲンが見た風景を案内するボランティア団体、中沢啓治が残した詩に楽曲を提供する音楽家などがいる。広島だけではなく、漫画は世界の25カ国語に翻訳され、出版されている。

いろいろな言語に翻訳された『はだしのゲン』(C)BS12 トゥエルビ